タヌポンの利根ぽんぽ行 早尾天神社2

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早尾天神社目次



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2015年春、石仏再調査にともない、早尾天神社関連コンテンツの再構成をしました。
以前は「早尾天神社」と「早尾天神社奥の宮」の2コンテンツでしたが、
今回「早尾天神社1」「早尾天神社2」で構成し直しました。
(「早尾天神社奥の宮」は「早尾天神社2」にすべてを移行させました)

「早尾天神社1」は早尾天神社の概要・由緒等を中心に構成し、
この「早尾天神社2」では、以下の4項目について編集。
1.利根町で唯一の松尾芭蕉の句碑と思われる「楳華碑」について
2.早尾天神社1で取り上げなかった境内の石祠・石仏について
3.早尾天神社のすぐ西隣りにある小梅園とそこに鎮座する石祠について
4.早尾天神社奥の宮とその関連石造物・参道入り口にある石仏について

上記は、いずれも、当初、存在が不明なもの、またやっと探し出しても、
銘文の判読が不能に見えるもの、どんな種類のものか判然としないものばかり。
ようやく、再調査等を重ねておおよその概要が判明しましたが、
いまだに謎の部分を残したものもあります。

少しずつ解明していく過程を前のコンテンツでは記述していましたが、
煩瑣になるため、今回は結果重視で、経過は必要最小限度に留めました。(15/05/13)


利根町北部マップ

利根町北部マップ

芭蕉と楳華碑

見つからない楳華碑

早尾天神社には、祭神の菅原道真公にちなんだ芭蕉の句碑である「楳華碑」があると、サイト開設間もない頃に知りました。
その碑には「廿五日は天神の祭かな」という句が彫られてあり、それが芭蕉作であり、しかも杉野東山の書だというのです。
それにしてもこの句は、語呂が悪いし、季語も何なのかよく分からないし、また芭蕉作という根拠もよく分かりません。
しかし、これにより毎年1月25日(に近い日曜日)に早尾天神社では例大祭を行っているとのことです。

まずは、境内で、この「楳華碑」を見てみようとしたのですが、これが実に困難を極めました。どこにも見つからないのです。
早尾天神社1で紹介しているように、すぐ目に入るような大きな石碑をはじめとして、主な石碑は確認しました。
しかし、それらはことごとく「楳華碑」とは異なるものでした。このあたりで少々当惑したことを覚えています。
残るは、以下のスダジイの大樹の左右にある 境内の石祠と石仏 (後述)ですが、一見してそれらしいものは見当りません。

石塔群 石塔群

左は大樹スダジイの奥。四郡大師の祠との間に並んでいるもの。ここに6基ありますが、前列は地蔵と、巡礼関連札所塔。
後列も、彫られている碑文も当初、しっかり見たわけでもないのですが、特筆するほどのものではないように見えました。
上右の写真で、もう1基、背後に隠れているのでが、それも楳華碑をイメージするような痕跡はまったく見当たりません。

これらのほかにまだ見ていないところ、境内の奥、本殿裏、さらに境内から外に出て、隣りの小梅園も探しました。
小梅園に1基、石祠を見つけ、これが楳華碑ではないことだけ分かり、ではそれが何なのか、という新しい謎も増えました。

楳華碑、発見

楳華碑、ついに発見しました!
上↑で紹介した左写真、大宮大明神と大樹の間に設置されていた6基の石仏類。そのなかに実は楳華碑があったのです。

後列のいちばん左の石碑、これが芭蕉の句が記されているという楳華碑でした。碑というより石塔ですね。
ちなみに楳華碑の「楳」の文字は「梅」と同じ意味で、つまり、梅華碑もしくは梅花碑という意味になります。
tanupon の好きな異色の漫画家で、「まことちゃん」などで有名な「楳図(うめず)かずお」氏の「楳」と言えばよく分かりますね。

媒華碑 媒華碑

石碑の台座の部分を洗ってみました。
すると文字がくっきりと現れてきました。
右から「楳華碑」と書かれています。
土で汚れていて見えなかったのです。

道具を何も持っていかなかったのですが、
社務所のそばにたまたまあった雨水のたまり水に、
たまたま持っていたタオルをぬらして拭いたのです。
ホースなどできれいに洗いたかったのですが、
まあ、これでも分かりますよね。

余談: 上記は探索初期の2005年時の記述、
銘文等をじっくり調べる癖もまだついていないとき。
いまなら、もっと早く見つけられたと思いますが・・・。

廿五日は天神の祭かな

媒華碑の拡大

さて、楳華碑であることは確定しました。
では、杉野東山書という芭蕉の句はどこに彫られているのでしょう。

この上の碑に彫られた文字はよく読み取れません。
かすかに読める文字を拾っても、
これは「廿五日は天神の祭かな」とはちがうようです。

正面ではないところに彫られているかも知れません。
しかし、向かって右サイドはまったく読めません。
真後ろはどうかというと・・・。
これもいろいろ書いてありますが、句のようではありません。
(ここでは写真は省略します)

さて、残りは、向かって左側。なんと・・・。濡れタオルでよく表面を磨いてみると!!!・・・何かそれらしい文字が・・・。

媒華碑

□五日は
□□天神乃
□□□□□可那

□印のところがいまひとつ見えにくいのですが、
これが明らかに例の句であることは確かなようです。
可那は「かな」ですね。
しかし最初の文字が廿または二十のようには
tanupon にはどうしても見えません。
もしこれがちがう文字だったとしたら
毎年1月25日の祭りは意味を成さなくなります。
でも、エライ学者さんたちがちゃんと解読しているか、
別の文献に書かれているのでしょうね。

さらに左のほうに何文字か書いてあるのも、さっぱり分かりません。

下のほうは辛うじて

菜日菴二卋
□□□東山拜

と読めます。杉野東山書ということは確実のようです。

因みに、書家杉野東山は布川の俳人である杉野野叟の長子で、
野叟が菜日庵(さいじつあん)を号したことから
その二世を名乗ったとあります(『利根町史』第6巻)。
杉野東山については詳しくは 応順寺の項目 で説明しました。

しかし、これが果たして芭蕉の句なのかどうかは
はっきりとはしていないとか。(えっ、それでは意味がない?)

本体: 高85cm、幅36cm、厚36cm。台石: 高34cm、幅59cm、厚59cm。

なお、この句碑は「当初、鳥居付近にあったところを現在の場所に移した」とか。(利根町歴史民俗資料館より)
そのときに「碑の向きを間違えて置いてしまったため、句の彫られた面が正面に来ていない」ということでした。
→ 2015年現在も碑の向きはそのまま。大人4人ほどの人力があれば変えられそうなのに、なんとかならないものでしょうか。
碑の向きもそうですが、鳥居付近からなぜ遷したのでしょう。もっとしかるべきところに置いてあげたい気がしてなりません。

25日と菅原道真の関係

菅原道真公と25日という日付は実は縁が深かったのです。それは・・・。生まれた日も亡くなった日も25日だった からです。

生年は承和12年(845)の6月25日であり、大宰府に流されて浄妙院で亡くなる薨年(こうねん)も
なんと延喜3年(903)年の2月25日なのです。(ただし、月日はいずれも旧暦です)

以下は、探索初期のまだ銘文解読がまるでできないときのたわいのない妄想です(笑)。


菅原道真公と25日が深い関係がある、という事実があるがために、
この媒華碑に記された芭蕉?の句頭を25日と決めてしまった、というようなことはないのでしょうか?

□五日は の□の文字は実は正確に判別されたものではなく、
菅原道真の生死の日付から推測したものではないのか?という疑問が tanupon に生まれてきました。
これがもし判別されていない文字であったとしても、やはり25日と推定するのが妥当ではないかとは思うのですが・・・。
でも、仮に、ぜんぜん別の言葉だとしたら・・・。どんな文字が該当するのか分かりませんが、もしそうだとしたら、
□可那 の□の文字も、「祭」ではなく別の言葉になるのかも・・・。
などと、こんなことを想像するのもなんとなく楽しいと tanupon は思っています。
でも、全国の天満宮などでは毎月の25日を縁日としているところが多いようです。
給料日としているところも多いですから、菅原道真公もなんとなくいい日に縁のある人ではありますね。


後日談: 碑の拓本(後述)を見れば一目瞭然。「廿」も「祭」も別の文字である可能性はゼロでした。
ただ、上記のような「妄想」を抱いたのも、破調というか、この句があまりにも俳句らしくないと思えたからです。
ところが、上記から約6年後に、その思いを払拭させてくれる事実を知ることになります。それが以下。

句の読み方発見

つついつつひはあまかみのまつりかな
つついつつひはあまかみのまつりかな

ついに、この芭蕉(推定)の句の五・七・五の謎が解明しました!
当サイトの掲示板 ぽんぽこBBS に、HN‘さつ’さんという方から投稿があり、判明しました。以下、転記します。

〜早尾天神の「廿五日は天神の祭かな」という句なのですが、どうやら「つついつつ ひはあまかみの まつりかな」と読むようです。私が以前学校で調べ物をしていて行き当たった『宗祇諸国物語』という1600年代後半の宗祇を主人公にした書物に出てきます。また、『天文雑説』『塵塚物語』という書物にも同様の物語が見られるようです。また、その中には「日光山をてらする桜かな」という句を「ひのひかり やまをてらする さくらかな」という読み方をする逸話もあり、一見五・七・五に読めない句を見事に五・七・五にするという話になっています〜 (12/01/25 投稿)

いやあ、永年の謎(?)がひとつ氷解しました。‘さつ’さん、ありがとうございます。
「にじゅうごにちは・・・」では、字余りで語呂も悪く、ちがう読み方をするのでは、とは思っていましたが、
「つついつつ」とは想像もつきませんでした。しかし、伊勢物語に出てくるあの有名な
筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに
の「つついつつ」とは異なるようで、「つつい」は「連い」と書くようですが、語源がいまひとつ不明です。
が、古典では、25をたしかに「つついつつ」と読むことはまちがいないようです。
では、35ならどう読むとか語源等意味合いがわからないと応用が利きません。今後の課題です。(12/01/26 追記)

『宗祇諸国物語』巻3に件の句を発見 しました。→

句を探すことより、『宗祇諸国物語』の本そのものを探すのに苦労しました(笑)。『塵塚物語』も探索中です。
しかし、これが果たして「芭蕉の句なのかどうか」については要考察です。あー、次々と難題が・・・。(12/06/03 追記)

つついつつは、10+5+10!

▼ 上記の12/01/26追記直後に、町の「豊島ホームページ」管理者のTさんとお会いし、「つついつつ」の話をしました。
その翌々日、Tさんがいろいろ調べてくださって、「つつ」が19を意味する ことや
それに「つついつつ」の「い」(=5)を足して 「つつい」だけで24の意味となる 等々のメールをいただきました。
また、「つつ」には別の解釈で、1少ない数を示す 意味合いもあること。
たとえば、「つくも」とは99の意味がありますが、本来つくもは「つつも」であり、「も」は100を示しています。
したがって、1少ない「つつ」が接頭語として付いている「も」は99となるわけで、
そうしたことから、「つついつつ」も24か25の意味がある のでは、という解釈がされていることを教えていただきました。

▼ しかし、ひとつの言葉の「つついつつ」の中で、前の「つつ」と後ろの「つつ」の意味合いがちがうことも、不自然ですし、
後半のひとつ数値を減らす意味合いのある「つつ」なのに、この場合は1つ足さないと25になりません。
これでは「つついつつ」を25と解釈する明快な回答とはなりえないような気がしました。
数値の前に「つつ」が付く場合は、−1、数値の後ろに「つつ」が付く場合は+1とする、
こうした法則がもしあるとすれば、「つつい」(=19+5)プラス「つつ」(+1)で25となるわけですが、
これはちょっと複雑すぎる解釈のようにも思います。事実とはもっとシンプルなものにちがいないのです。

▼ また、もともと 「つつ」がなぜ19という意味になるのか も釈然としませんでしたが、
これは、「つつ」は「連」という字を書き、連歌が19文字だからという説明を見て、一見なるほどと思いました。
それでも、19とは中途半端な数値で、しかも19の場合だけしか応用がききません。
天神の記念日の25という数値を示すのに、なぜこのような19という概念を持ち出さねばならないのか、
そんなところも、なにか納得できないものを感じました。

▼ ところが、「つつ」が19という数値を示している、というのは実は、連歌ではなく別の理由からであることが分かりました。
以下、goo 辞書より。

つづ【▽十】
1 《二十歳のことを言うのに「つづ(十)やはたち(二十)」と用いられたところから誤って》19歳。「いくら利口のようでも、やっぱり―や二十歳(はたち)の処女(むすめ)でございますよ」〈紅葉・二人女房〉
2 とお。じゅう。〈日葡〉

▼ なんということでしょうか。古語の「つつ」とはもともと19ではなく「10」 なのです。
というか、古語の10は「つつ」(つづ)と読む のです。
「つつ」を10ではなく、転用となった19と解釈、そこから25をひねり出そうとしたことが、そもそものまちがいでした。
すなおに「つつ」(=10)+「い」(=5)+「つつ」(=10)=25 でなんのことはない25です。

▼ 「つついつつ」は「10+5+10」。
この結論は、とくにどこかに記されていたことではありませんが、tanupon はまずまちがいないと思います。
シンプルで分かりやすい。単純明快。正解とはいつもそういうものだからです。
ですから、別の真実がある場合、それをだれかに説明されるまでは、この解釈を tanupon は是とすることにします。
(12/01/29 追記)

芭蕉作の根拠

楳華碑表面の拓本

いままで、「廿五日は天神の祭かな」が
ほんとうに松尾芭蕉の句なのかどうかについて考察してきたのですが、
そもそもこの 楳華碑の句が芭蕉作といわれる根拠はどこにあるのか
を説明していませんでした。

実は、当初、それを知らなかったせいもありますが、調べてみると、
唯一の根拠と呼べるものが、やはり楳華碑の碑文にあったのです。
それも表面以外のもはや読めなくなっている箇所ではなく、表面そのものに。

左が『利根町の文化学芸碑』に記されている楳華碑表面の拓本です。
さすがに、拓本がとられていると分かりやすいですね。
これだとやはり廿五の文字も明快に分かりますし、
tanupon が当時苦労して解読した東山の号「菜日菴」も明らかです。

それでは、問題の「芭蕉作の根拠」となる部分とは?

そうです。tanupon も、気にはなっていたのです。
句のいちばん左に4文字ほど彫られているのを。
これが目視だと変体かなもあり、読み取れませんでした。

右はせを

はせを、とはつまり芭蕉。「右の句は芭蕉」ということを東山が記しているのです。
なんと、芭蕉作の根拠とはこれがすべて、なのです。

『利根町の文化学芸碑』では楳華碑と記された台石の裏面も調査、
文政十三年歳 庚寅春三月 建焉  道仙田石刻太兵
つまり文政13年(1830)年の造立であり、
芭蕉(1644−1694)の没後136年も経過していること、
および、この句が破調であることから、芭蕉作が疑わしい旨、言及しています。

しかし、136年経過はともかく、「つついつつ」の読み方発見で、
破調ではないことをわたしたちは認知していますし、当代の書家、東山の保証。
やはり芭蕉作ではないか、という期待を持たせます。

さて、『利根町の文化学芸碑』は、石碑の各面の文字の解読に成功しています。以下、転記紹介します。
現在、石碑は、句が記された表面が前面になってはいませんが、正しい表面を基準に右左側面を記します。

左側面(七言絶句)
 題梅月 明僧麟洲
疎花繊月闘清寒曽向西
湖雪後看零落断香三十
載幾家風笛倚蘭干

読み下し文
梅と月に題す 明僧麟洲
疎花繊月清寒と闘う
曽って西湖に向い雪後に看る
零落して香を断つこと三十載
幾家の風笛蘭干に倚る

右側面(七言絶句)
花正開時天不晴晴時満
樹緑陰成蘭干倚遍空惆
帳静聴黄鷗一両声
宋東坡之詩
     杉野東山書

読み下し文
花正に開かんとする時天晴れず
晴れし時樹に満ちて緑陰成る
蘭干に倚れば遍空惆帳たり
静かに聴く黄鷗の一両声を
宋東坡=蘇軾(1036−1101)の詩

(13/04/20 追記)

芭蕉作の真偽

『芭蕉句碑を歩く』の紹介

筑波書林が平成元年(1989)に発行した『芭蕉句碑を歩く』−茨城の五十八基−に、この楳華碑も紹介されています。
しかし、著者の堀込喜八郎氏によれば「この句はいずれの文献を歩猟しても見つけることのできない句である」としています。
確かに「芭蕉作」の根拠が判明する文献は見られないようですが、すべての文献にないという意味なら「歩猟」不足です。
現実に、この句が 『塵塚物語』 『天文雑説』 『宗祇諸国物語』 の3つの文献に掲出されていることを知りました。

また堀込氏は、文献に見当らないということだけでなく、以下のように、述べています。

この句は月並みというよりあまりにも平凡でまるで標語のようであり、到底芭蕉の句とは思われない 駄句 である。

→ 確かに tanupon も当初は同様な印象を抱いたことは事実です。でも、それならなぜ東山が・・・となるのですが・・・。

俳諧点者として一家を成し、菜日庵二世を継承した東山であれば芭蕉発句集の二、三部は少なくとも所持していたにちがいない。その東山が何故このような 噴飯ものの句 を芭蕉の句として碑に刻んだのか誠に不可解である。

→ 「噴飯もの」と断定する前に、「何故」をもっと追及してもらいたい気がします。また東山への侮蔑も感じられます。

一部の郷土史研究者たちが「天神の廿五日は祭かな」と読み、五、七、五調に語呂を合わせて読んでいる著述がみられる。しかし、句碑の筆順からみてこの読みは大きな誤りを犯している。

→ そんな郷土史研究者たちや著述があるとは初耳でしたが、堀込氏は、句の読み方が分かっていないことがこれで判明。
しかし、堀込氏を初め、研究者がこの一見破調の句に頭をひねって、結果、分からずじまいというのが、なんとも情けない話。
堀込氏はこの後、杉野東山の紹介に移行し、「梅花碑」をわざわざ「楳華碑」などとしたり、「異体字」を用いる東山を、

・・・異体字を多く用いて一般庶民にはむずかしくて読みにくいようにし、自分の博学を誇示しようとする意図が心の片隅にあったからではなかったろうか。

と、自らの不明を棚に上げ、誹謗に。確かに昔の人は衒学的な面も見られますが、それは東山に限ったことではありません。
堀込氏は、碑文では少なくとも茨城の芭蕉句碑をほかに57基も見てこられた(実際には見ていないのかも?)のですから、
石碑関連では異体字・難字等数多く見られたはずで、東山だけがいたずらに衒学的であったことにはなりません。
芭蕉句である証左が得られないはともかく、句の読み方を認知していない、東山についてよく知らない等々の個人的理由で、
利根町の「楳華碑」のみならず、優れた書家を疎かにするような論述はどうも・・・という印象は否めません。

『芭蕉句碑を歩く』−茨城の五十八基− の著作 を思いがけなく手にし、早尾天神社の芭蕉の句碑の掲載も見つけて、
これは!と期待して読んでみたら、実に次元の低い甘い考察に終始したものにすぎなかったことが残念です。
堀込氏が 『塵塚物語』 『天文雑説』 『宗祇諸国物語』 をまったく認知していなかったといっても過言ではないでしょう。

この句に関しては駄作本の話はここまでとし、その後の‘さつ’さんからいただいた考察報告を以下、紹介します。

残念ながら現状では謎

以下、本年(2013)7月のBBSに投稿いただいた‘さつ’さんの報告を紹介します。

『塵塚物語』巻六の句表示

・・・この句についてですが、様々な謎をはらんでいます。
まず誰が詠んだかですが、一つは句碑にあるように、芭蕉説があります。そしてもう一つ、この句が載っている別の書物『塵塚物語』『天文雑説』では、宗祇によって詠まれた事となっています。さらに、『宗祇諸国物語』では宗祇の門人が詠んだ事になっています。ただし『塵塚物語』『天文雑説』『宗祇諸国物語』はいずれも物語であり、いずれかの物語の作者が詠んだ可能性、物語の作者が既にあったこの句を使って宗祇作や宗祇の門人作という設定の物語を作った→本当は芭蕉作であるが誰が詠んだか伝わらず流布し、各物語の作者が物語に合わせて作者を変えた可能性、等々様々な可能性を挙げる事ができると思います。そのため、句の詠み人が誰であるかは、謎のままです。

『宗祇諸国物語』巻三の句表示

また、詠み人が誰かを考えた時に句が載っている各書物の成立年代の問題も出てきます。『宗祇諸国物語』の成立年代は1685年となっていますが、『天文雑説』は1532−1555年の間のどこか、『塵塚物語』は1522年となっています。『天文雑説』『塵塚物語』が本当に1500年代の成立であるならば、芭蕉の生きた時代とのずれがあるため、この句の芭蕉説は違っている事になってきます。しかし、私が学生時代にお世話になった研究室の教授は、『塵塚物語』と『天文雑説』は内容が酷似しており、どちらかがどちらかを真似て作られ、尚且つ本当は書物に記載された年代ではなく、江戸時代に入ってから作られたもので、わざと過去の年代を記載したのではないか?」とおっしゃっていました。また、物語自体の成立年代が記載された通りであったとしても、句が含まれている話が成立年代よりも後世の江戸時代になってから作られ、物語に付け加えた形で出版された可能性もあると思われます。・・・この句の詠み人及び成立年、そして句の登場する物語との関連は謎のままです・・・

※ 文献写真は、上が『塵塚物語』巻6、下が『宗祇諸国物語』巻3の当該句が記されたページ。クリック拡大できます。

上記をまとめますと、繰り返しになりますが、以下のようになります。

この句は だれが詠んだ句 か。

ただし 『塵塚物語』『天文雑説』『宗祇諸国物語』はいずれも物語 であるため以下の可能性もある。

他方、句が載っている 各書物の成立年代からの考察 では、

しかしながら、以下の見方も可能性 としてある。

しかし、依然として、この句の詠み人及び成立年、そして句の登場する物語との関連は謎のまま、ということになります。
投稿いただいた‘さつ’さんは、国文学の教授のもとで研究されていた様子で、tanupon などとはレベルがちがうようです。
しかし、利根町そして茨城県の郷土史の学者先生方には、もっと頑張ってもらいたいなあ、と、また他力本願の思いが・・・。

(2013/10/08 追記)

境内の石祠と石仏

楳華碑の存在が確認されたので、あまり精査していなかったその他の石祠・石仏を以下ひとつひとつ紹介します。
これらは、鳥居からの正規入口から入ってすぐ右手のスダジイの大木の左右に5.6基ずつまとめられています。
以下の右写真は、その背後から大師堂方面を見た様子。スダジイ右の背後に隠れた石仏が1基見えます。

スダジイを挟んで境内の石祠と石仏 スダジイの背後からみた石仏

スダジイ右の6基

スダジイ右の6基

神道系の石祠と仏教系の石仏が
混在しているようです。

右の2基は
なんとか説明が付きそうですが、
左の3基は風化が激しいようです。
この5基の左端背後にもう1基、
右(東)向きの石仏があります。

以下、右から個別に見ていきます。

子安観音塔

子安観音塔 子安観音塔左側面

これはめずらしいですね。
早尾村」の「女人講中」が建てた
赤子を抱いた子安観音塔ですが、
台石部分に11名の女性の名前が
記されています。右から、

なつ、はや、こん、きの、いし、はつ、
しの、きい、さき、のい、ゆき

このような女性の名前列記の塔は
利根町ではここで初めて見かけました。
後日、横須賀の子安観音 でも発見。

同名の人がいたらどのように記すのか
興味深いですが、偶然なのか、いませんね。
みんな「お」を付けて呼んだのでしょうね。
「おいしさん」「おきいさん」「おのいさん」
などは、ちょっと妙な感じですが・・・。

左側面には「天保六未十月吉日」。天保6年(1835)10月の造立。幕末に多い如意輪観音からの移行型子安観音です。

本体: 高60cm、幅26cm、厚12cm。

敷石供養塔

敷石供養塔 敷石供養塔左側面

敷石供養塔」とは、参道の敷石工事完成を
記念して建てられるものですが、
あれっ、参道に石が敷かれてましたっけ?
ああ、あるか。失礼しました。

ちなみに、石段などでは、蛟蝄神社で、
石階寄付連名碑 などもあります。
ここは早尾天神社というより別当寺なので、
碑ではなく「供養」塔となるわけですか。

左側面に「嘉永三戌年二月吉日」、
嘉永3年(1850)2月の造立で、
西光寺現住貞應代」とあります。

本体: 高82cm、幅23cm、厚14cm。

稲荷大明神

稲荷大明神 稲荷大明神左側面

この石祠は再調査のときまで、
造立年情報しか分かりませんでしたが、
2015年、石祠表面をじっと眺めていて、
あっ、「稲荷大明神」、と閃きました。

この発見で、利根町の稲荷神社は、
総計19社を数えることになりました。

左側面は「天明二壬寅二月吉日」、
すなわち、天明2年(1782)2月の造立。
早尾天神社の境内社になるのでしょうか。

本体: 高57cm、幅37cm、厚30cm。

石尊神社

石尊神社 石尊神社左側面

石祠の表面ですが、なんとなく、
石尊神社」と記されているように思います。
が、自信はありません。

また、右側面も、「明治十九年建之」、
明治19年(1886)年建立、と読みましたが、
明和元年とかそういう見方もできるかも・・・。
明和だと干支の文字が入ると思いますので、
十中八九明治でいいかと・・・。

これも境内社と呼ぶのかどうか・・・。
要するに、はっきりしません(笑)。

石尊神社の祭神については、以下参照。
上曽根の水神宮「石尊大権現」

本体: 高44cm、幅26cm、厚19cm。

疱瘡社

疱瘡社 疱瘡社左側面

この石祠に至っては、剥落・風化が激しく、
石祠表面内部はほとんど文字が読めません。

ところが、『利根町史』に、以下の記述。
「疱瘡社 嘉永5年(1852)」外5基。
嘉永5年のものはほかに見当たらないので、
この石祠しか考えられません。

そういう観点で、石祠左側面を見てみると、
嘉永五」がなんとなく見えます。
また前面内部も「疱瘡社」らしく見えます。

まるで誘導尋問・我田引水のようですが、
暫定的にこれを疱瘡社としました。
これで疱瘡神を祀る石祠は
利根町では4基を数えます。

本体: 高56cm、幅43cm、厚26cm。

しかしながら、こんなとくに判読が分かりにくいものだけを紹介し、外省略という『利根町史』の記述はどうも納得いきません。
まあ『利根町史』編纂時と現在とでは時間の変遷もあるし、当時は銘文が明快に判別できたのかも知れませんが・・・。

十六夜塔1

十六夜塔

もう1基は、上記5基(南向き)の背後で、東向きに建てられています。

右に「爲十六夜念佛 二世安楽也
左に「元禄十三庚辰十月十六日 同行十五人

半跏思惟型の如意輪観音像が彫られていますが、
本来、十六夜塔の主尊は阿弥陀如来・大日如来か聖観音。
なんでも如意輪観音を刻像してしまう利根町特有の傾向が、ここにも表れています。

元禄13年(1700)年の造立。
光背最上部には種子が彫られているようですが判然としません。

本体: 高77cm、幅40cm、厚22cm。

スダジイ左の5基

スダジイ左の5基

見たとおり全部で6基ありますが、
左端は「楳華碑」で前述しましたので、
この項目では省略します。

庚申塔1基以外は、すべて仏教関連。
神道系石祠はゼロです。

手前の「西国四番〜」石塔、地蔵、
そして後列の右から順に紹介します。

札所塔

西國四番札所塔 西國四番札所塔左側面

種子サクの下に、「西國四番札所」。
下方左右に「早尾村」「西光寺」。

この塔がどういう意味をもつものか、当初、
まったく分かりませんでした。

西國云々とは、西国三十三所巡拝のことで、
その四番札所は、大阪府和泉市の施福寺。

早尾村の西光寺とどんな関係なのでしょう。

施福寺(せふくじ)1ヵ所巡拝しただけで、
その記念に塔を建てる、というのもヘンです。

これは、最近(2015)になってようやく、
「西国三十三所」の写し巡礼として、
早尾「西光寺」がその四番札所に設定された、
そういう意味のものらしいことが分かりました。

左側面には「安永八己亥十一月吉日」。
安永8年(1779)11月の造立です。

写し巡礼としては、探索当初から、利根町では文政元年(1818)開設の四郡大師の鞘堂を各所に見つけました。
まさかそれとは別次元の写し巡礼が、四郡大師発足以前から存在していたとは想像もしていませんでした。
そういえば、ほかの地区でも、同じように不可解に思った塔が、四郡大師堂と並立して建てられていたりしました。
西国三十三所巡拝は観音巡礼ですから当然仏教系で、早尾天神社というより「西光寺」が札所となるわけです。
西光寺が廃寺となり早尾天神社という神社に仏教の巡礼札所塔が残っているのはおもしろいことと思います。

本体: 高73cm、幅27cm、厚17cm。

地蔵菩薩塔1

地蔵菩薩像

光背もなく、台石もない、丸彫りの地蔵塔は、
単に「地蔵菩薩塔」という説明しかできません。
もちろん、光背や台石があっても、銘文が刻まれていなければ、
やはり何も言及できませんが・・・。
せめて、造立年くらいは知りたいところです。

本体: 高78cm、幅34cm、厚20cm。

庚申塔

青面金剛王」が彫られた庚申塔文字塔。上部に日月雲、下方に三猿の浮彫があります。左から、正面、右側面、左側面。
右側面は「早尾村」、左側面は「天保七丙申年九月吉日」で、天保7年(1836)9月の造立。
早尾天神社では唯一の庚申塔ですが、利根町の青面金剛文字塔は「青面金剛」ばかりなのは何故でしょう?

庚申塔 庚申塔右側面 庚申塔左側面

本体: 高91cm、幅31cm、厚18cm。

墓塔

これは、正面に男性1人、左側面に女性2人、合計3人の戒名・命日が記されていますので、墓塔と思われます。

墓塔 墓塔左側面

[正面]
晃真軒釋棋仁誘法義居士位
弘化二巳天六月朔日
弘化2年(1845)6月1日

[台石]
俗名 仁兵エ 七十四才 内商人中

[左側面]
法諱釋妙證信女果位
文政十三庚寅六月二十日
文政13年(1830)6月20日

金號釋妙慧信女果位
天保八丁酉四月八日
天保8年(1837)4月8日。

台石には、内商人中とありますので、
商家の家族の墓ではないでしょうか。

なお、戒名の果位(かい)とは、仏道修行によって得られた悟りの位の意。

本体: 高72cm、幅35cm、厚33cm。台石: 高31cm、幅58cm、厚57cm。

読誦塔

読誦塔 読誦塔右側面

中央に「千部経王塔」とあります。
経王とは法華経・大般若経など
経典中最高のものを指すようですが、
それを千巻読み通した記念に
建てられた塔と思われます。

したがって、右側面に、造立日である
天保五午年九月廿六日」、
天保5年(1834)9月26日を挟んで、
法運法子」とあり、これは仏弟子の意味で、
仏に帰依する者ならではと言えましょう。

本体: 高67cm、幅27cm、厚18cm。

小梅園と道祖神

小梅園

境内奥、というより隣りの敷地。早尾天神社からいったん外、バス通りに出てすぐ左手に入ると・・・。
とてもきれいな梅の木が何本か立っているミニ梅園があるのですが・・・。

梅 梅

おやっ、何か見えますね。白梅の木の下のほうに。未発見時は、「楳華碑発見」の期待がたかまるシチュエーションでした。

梅 何か見える・・・

小梅園の石祠

石祠 石祠
石祠左側面

石祠表面は卍マークだけ、これでは何の石祠か不明です。
左側面には「萬延元申年十月吉日」、
万延元年(1860)10月造立の銘があります。
(写真で石祠の前に見える白いものは大根のお供えです)

台石前面には「村講中」、
左側面には「卋話人 坂本傳左衛門」ほか2名の名。

探索初期は、「楳華碑」だけでなく、
後述の「早尾天神社奥の宮」の存在も不明でしたので、
この石祠の発見に「もしかして」と思いましたが、
いずれでもないことだけは判明。しかもこの石祠も不明。
謎がさらに1つ増えただけの結果となってしまいました。

ある推定

最初の訪問から何度、ここに立ち寄ったことでしょうか。でも、一向にこれが何の石祠なのか解決の糸口が見つかりません。
そんなおり、過去の画像を整理してみると、あることに気付きました。以下の画像を見比べてみてください。

大根のお供え 大根のお供え
ナスのお供え 大根のお供え

どうです、何か気が付きましたか?いずれも、異なる日の撮影です。上の2枚は2005年、下は2006年と2011年。
ああ、そういえばみんなお供えがしてある、でも大根3つにナス1つ。別にどうっていうことない。そうお考えですか?
それなら、先日(12/06/19)再構成UPしたばかりの「立崎地区」コンテンツ、以下のリンクの記事を読んでみてください。
祭礼と風習

もう、お分かりですね。これは、「道祖神」の条件にぴったり合います。「ふたまたに分かれた野菜のお供え」だけでなく、
以下のようなことも、道祖神の特徴と言えます。これらにも、この石祠は該当します。

早尾の道祖神

しかし、tanupon は、やはり、ここまでの個人的推定だけで、ここに「道祖神」と記すことには躊躇します。
それで、とうとう、あることに踏み切ってしまいました。それが、以下。左が「使用前」、右が「使用後」。

早尾の道祖神 早尾の道祖神
早尾の道祖神

神職か氏子の方しか
やってはいけない(推定)ようなことを
してしまいました。
どうも申し訳ありません。

どうにも誘惑を抑えきれず、
石祠のフタを動かして見たのです。
最初、動かないので、
逆にちょっとあんしんしたくらいです。

でも、がさごそやっているうちに
とうとう・・・。

そして、ついて苦節8年の「?」が
一気に氷解する文字を
そこに発見しました。

あとはお参りして、とうぜんながら、
ていねいに元に戻しました。
(12/06/24 追記) (12/06/23 撮影)

本体: 高59cm、幅42cm、厚26cm。台石: 高13cm、幅38cm、厚24cm。

早尾天神社奥の宮

早尾天神社には奥の宮があると聞きました。しかし、これがいったいどこにあるのか?境内を探しても一向に分かりません。
所在地が「早尾坊谷津台上」と『利根町史』に書いてはあるものの、「新参者」にはそれがどこなのかよく分かりません。

民俗資料館の人のヒントでようやく見つけましたが、大平神社 と同様、「こんなの分かりっこないよ〜」が正直な感想です。
それくらい分かりにくい場所にあったわけですから、もちろん、クルマなどではたどりつけませんよ!

ちなみに、利根町の神社で奥の宮があるのは、早尾天神社のほかには 蛟蝄神社奥の宮 だけです。
ただし、早尾天神社奥の宮の場合、本社は早尾天神社ですが、蛟蝄神社奥の宮 は、それ自体が本社のようです。

早尾拡大マップ

早尾拡大マップ

まず、早尾地区の拡大マップから
見てもらいましょう。
結論から言えば、奥の宮は図の左上、
早尾天神社の北西にあります。

早尾天神社からは、
距離にすると2kmもないのでしょうが、
そこを探しあてるまでのみちのりは
とても長いものがありました。

目印は小高い塚

塚遠景

マップのA地点より少し手前から北方を見ると、
前方に塚のように小高くなった場所が見えます。
どうやらここが怪しい感じです。

どこか登り口を探してみましょう。

塚への道

奥のガードレールに沿って、
右方へ道がついているようです。
果たして、塚の内部に入れる路でしょうか。

この写真のすぐ手前の右折の道は、
民家へ続いていて行止りです。

A地点からB地点まで

少しなだらかな登りの坂道になっています。舗装はしてありますが、軽でもクルマはちょっとムリです。

塚への道 塚への道

この坂を登りきってぶつかった道は、北方貝塚 探索のときに歩いたことがあります。
そのときは向こうからこちらには降りてはこなかったのです。
でも、こんなクルマの通れない道はなんとなくいいですね。散歩には最適です。この近所のひとはいいなあ。

塚への道 塚への道

向こうの道に着く前に何か発見できるといいのですが・・・。

では、ここまでを、以下Flashで。

A地点からB地点まで

けっこう歩いて、突き当たりの道が見えてくる寸前に、
右のほうに何かが見えてきました。

月のマークの石祠

右手に石祠 石祠

月のマークが見えますね。
月星の家紋は昔、この辺りを治めていた千葉氏の紋ですから、もしかすると何か千葉氏に縁のあるものかも知れません。

でも、注連縄など設えてあっても、これが奥の宮というわけではなさそうです。


ご注意: このコンテンツをUPしてちょうど1年、奥の宮を訪問された方より「月のマークの石祠」が消失している、というご指摘を受けました。ほかの新規探訪優先でここへの再訪はまだだったのですが、変化しているのですね。余裕があればもう一度、実際に出かけてその変貌の様子を記録しておきたいと思っています。(06/05/06 追記)

月のマークの石祠その後

消失した石祠

ようやく再訪問 (06/06/19) してみました。
奥の宮を訪問された方のご指摘通り、見事に消失しています。
これは盗難とか、雨でその先に流失してしまったというよりも、
持ち主の方が移転されたという感じがします。
道端ではあまりにも、ということだったのでしょうか?

この日は雨上がりの晴れ間。
奥の宮への入口は滑りやすくなっていて、
内部は雨でそうとう草木が濡れていると予想、
中に入るのは断念しました。(06/08/15 追記)


さて、前方突き当りの前に通った道を見て、やっぱりこの坂道途中には奥の宮はないのか、と思いました。
でも、ふと、なにげなく左手をみると・・・。

石仏と石段発見

石仏4基、塚の壁面に土止めのように並んで埋め込まれています。(詳細は後述 石仏4基
しかし、それらの石仏をよく見る前に、タヌポンの目にあるものが飛び込んできました。すぐ左手にあるミニ石段!!!
そして、その先に、いま来た道とは逆方向に塚の上へと向かうなだらかな小道が続いているのも!

もちろん、今度は、舗装された道ではありません。獣道のような通路が奥に続いているような様子です。
これはきっと何かがあります。見通しはよくなく、ちょっと不気味ですが、こうなれば、進んでみるしかありません。

小道発見 小道発見

B地点から、ついに発見

ついに発見

石段を駆け上がるとそこは 鎌倉街道 でした。

いや、鎌倉街道と同じような路。
初めて鎌倉街道を見たときのような気持ち。

ここにはきっと何かがあります。

ほら、左手に何か、石燈のようなものが見えてきました。

これは、まちがいありません。
ここです。
早尾天神社の奥の宮は!

以下、入口付近から順に要所を紹介します。

入口付近

石段を昇ってすぐのところに、竹の通せんぼ。こう挑発されると(笑)たまりませんね。無論、突き進みます。
あっと、この通せんぼはいつもあるとは限りませんよ。人為的ではなく、台風とかそういう理由でこうなるの・・かも?

竹の通せんぼ 竹の通せんぼ

石灯籠

少し進んで左手に見えてくるのが、この石灯籠。こんなものがあるというのは、この道がただの獣道ではない証拠です。
灯籠の右に見えるのは切り株のようです。石灯籠はあとで調べるとして先に進みます。

石灯籠 石灯籠

石灯籠右手の少し大きな樹、その2本目を通り過ぎると、前方になにか見えてきました。
古びた鞘堂のようです。これが、早尾天神社の奥の宮にちがいありません。

奥の宮 奥の宮

奥の宮本殿

行き止まりの小空間に、鞘堂が静かに鎮座しています。1枚破れた板の間から、朱色の文字の「奥の宮」の石祠が見えます。

奥の宮の祠 奥の宮本殿石祠

祭神はもちろん、菅原道真公。鞘堂の周囲をぐるりと回ってみると、いずれの面にも朱文字が彫られています。
以下、写真左から、左側面「祭日正月二十五日」、右側面「早尾氏子一同」、裏面「昭和三十八年九月建之」。
昭和38(1963)年9月と、比較的新しい造立ですが、それが創建ではないでしょう。創建がいつなのかは不明です。

奥の宮本殿石祠左側面 奥の宮本殿石祠右側面 奥の宮本殿石祠裏面

周りの雰囲気に比べて、「昭和」の造立がちょっとものたりない奥の宮の発見でした。古い石祠が残っていれば・・・。

本体: 高67cm、幅43cm、厚33cm。

奥の宮の石造物

参道途中の石灯籠のほかに、奥の宮本殿鞘堂手前に手水、そのほか鞘堂裏に妙な石も見つけました。
また、『利根町史』に「念仏供養塔 元禄6年(1693)ほか十六夜供養塔等3基あり」とあり、
入口の石仏4基もあわせて、以下、詳細を紹介します。

常夜燈

常夜燈

前述の石灯籠。なかなか形のいい灯籠です。
再調査で銘文等探してみましたが、何も刻まれていないようです。

本体: 高85cm、幅48cm、厚48cm。

手水

手水

鞘堂少し手前の参道右手に古い手水を見つけました。

正面に「奉納」と「万人講中」。
右側面(下左写真)には「世ハ人」(世話人)と名前、
左側面(下右写真)は「天保九戌正月□
天保9年(1838)正月の造立と分かりました。

世話人の名前が数人彫られているようですが、
脇に樹木等があり、かなり落ち葉等かき分けないと見えません。
またの機会に・・・。

本体: 高30cm、幅95cm、厚44cm。

手水右側面 手水左側面

力石

力石

奥の宮本殿鞘堂裏の石。

手前は「力石」もしくは「さし石」と
呼ばれるものかも知れませんが、ちょっと小さすぎるでしょうか。

本体: 高29cm、幅36cm、厚30cm。

それでは、奥の宮参道入口に戻って、土止めのように崖に埋め込まれた4基の石仏を見てみましょう。
ここは、道路の両側に樹木等があり、いつも日陰で薄暗く、シャープな写真が撮れません。
また、雑草ほか、手では摘むことができない硬めの小枝の樹木も繁茂して、取り除くのにも手間がかかります。
さらに、冬場以外は、蚊の大群に襲われますので、何度撮ってもピンが甘く・・・ああ愚痴ばかりです。

石仏4基

石仏4基

以下、左から順に
1基ずつ紹介します。

『利根町史』にある念仏供養塔
元禄6年(1693)は見つかりません。

可能性としては、大部分が
欠落している地蔵菩薩塔ですが、
丸彫りの塔では銘文は
一般にない場合が多いので、
台石などが本来はあり、そこに
刻まれていたのかもしれません。

『利根町史』の記述と実際とは
なかなか符合しないことが多く、
不可解な説明に戸惑います。

月待塔(十六夜塔・十九夜塔)

月待塔(十六夜塔・十九夜塔)

刻像されているのは、「聖観音」でしょうか。
立像なので、如意輪観音ではなさそうです。

光背右に、「奉供養十六夜十九夜二世安楽也」と、
十六夜と十九夜の月待が並立して刻まれている珍しい塔です。
他県ではこうした銘文は珍しくないそうですが、
利根町ではこの1基だけではないでしょうか。
分類集計では、1基だけで十六夜塔1、十九夜塔1と数えるようです。

左には、「延宝四丙辰天十一月吉日」が読めます。
延宝4年(1676)11月の造立ということになります。

本体: 高79cm、幅32cm、厚14cm。

十六夜塔2

十六夜塔2

右に「奉造立十六夜供養爲二丗安樂也 同行十六人」と記されています。

左には、「元文四己未天 十二月二日 早尾邑」。
元文4年(1739)12月2日の造立。
この塔も、中央の刻像は、「聖観音」と思われます。

本体: 高98cm、幅35cm、厚13cm。

地蔵菩薩塔2

地蔵?

これは、頭と胴の一部だけという感じで、あとは土中に埋まっているのでしょうか?
というか、胴体の上部が欠損しているように見えます。

頭だけを見ると、地蔵のような気がします。
胴の形も錫杖と宝珠を持った地蔵像に似ている様子。
断定はできませんが、地蔵菩薩塔と思われます。

本体: 高47cm、幅31cm、厚11cm。(欠損参考)

十五夜塔

十五夜塔

これは利根町でとくによく見かける如意輪観音の半跏思惟型の刻像塔です。
十五夜塔なら本来、如意輪観音ではないのですが、利根町ではこれが主流。

右には「奉造立十五夜供養二世安楽也
さらに右下に「同行十五人」が見えますが、 十五夜の五は、はっきりしません。

ただし、左に記されている造立年には、「元禄」という文字は見つかりません。
延宝六年午八月吉日」。つまり延宝6年(1678)8月の造立。

したがって、これも『利根町史』の
「念仏供養塔 元禄6年(1693)」ではないわけです。
それは、いったいどこに消えたのでしょうか。

本体: 高73cm、幅38cm、厚13cm。


奥の宮帰り道

帰り道・・・。
奥の宮の参道も、鎌倉街道と同様に
初体験のときは、どきどきしましたが、
この帰り道の小さな坂道も
なかなか気に入りました。


(15/05/13 再編成) (13/10/08・13/04/27・13/04/20・12/07/08・12/06/24・12/01/29・10/12/21・06/08/15・06/05/06・05/09/11 追記) (05/05/02) (05/04/03)
(撮影 15/04/24・15/04/15・12/06/26・12/06/23・11/02/23・10/12/23・09/04/03・08/02/29・07/08/11・06/09/16・06/06/19・05/05/01・05/04/09・05/04/08・05/04/02)


本コンテンツの石造物データ → 早尾天神社2石造物一覧.xlxs (15KB)