利根町は、正式には、茨城県北相馬郡利根町、と言います。
でも、利根町のHP では、北相馬郡を省略して、茨城県利根町、と記されています。
・・・郡と聞くといかにも田舎〜という雰囲気で、そう思われたくないから、なのでしょうか(笑)?
でも、これにはわけがありそうです。
というのは、北相馬郡には、実は現在、利根町しかない のですね。
2005年(平成17年)3月28日、それまで利根町のほかでは唯一北相馬郡に所属していた藤代町が取手市に編入。
これ以降は、茨城県北相馬郡と言えば、イコール利根町を示すことになりました。
こうなると、もう北相馬郡という表記は要らないと言ってもいいようですが、
かといって、茨城県利根市という風に昇格できるほど人口は増えず、過疎化傾向へ・・・。
一時、竜ケ崎市への編入という話もありましたが、それも立ち消え、
市でもなく、郡を省略し、「利根町」と単純に呼ばれるようになっています。
もし将来、竜ケ崎や取手市に編入されたり、また市に昇格したりすると、「北相馬郡」は消失してしまうことになります。
でも、歴史的に、かつて隆盛のあった「相馬郡(そうまこおり)」の名が消えてしまうのも寂しいものがあります。
ところで、タヌポンのように他県から移住してきた者は、以下のような疑問を持ちます。
上記の疑問の答えは、以下で。
「下総国相馬郡」は明治12年に消滅
下総国相馬郡は、現在の茨城県・千葉県(下総国)にあった郡。厳密には異なりますが「相馬御厨」とも呼ばれる地域。
当時の「北相馬郡」は現在の行政区画に当てはめるとおおよそ以下の通りになります。
ただ、古代・中世の相馬郡および相馬御厨の範囲とは正確には一致していないようです。
「南相馬郡」は明治30年に消滅
北相馬郡の変遷と利根町
福島県はまず「相馬郡」が明治29年に発足
福島県地方には、元は「相馬郡」という名称は存在していませんでした。相馬郡が誕生したのは、茨城・千葉の相馬郡が消滅した後です。
ただ、その郡名は、鎌倉時代以来この地を治めていた相馬中村藩主・相馬氏に由来しています。
鎌倉時代に下総国相馬郡で有力武士となった相馬氏は、その後地頭職を得ていた陸奥国宇多郡・行方郡に移住、子孫は相馬中村藩藩主となります。
相馬郡の発足前から同藩(通称・相馬藩)の領域は、郡名にかかわらず相馬と通称されていました。
福島県相馬郡は、福島県浜通り北部の郡。2014年現在、1町1村新地町・飯舘村
現在、福島県の浜通り北東部を見たとき、北(新地町)と西(飯舘村)が相馬郡、東に相馬市、南に南相馬市という位置関係となっています。
要約
相馬御厨(現在の千葉県北西部。松戸から我孫子にかけての一帯)と関係の深いのは千葉氏。相馬氏は、初代の相馬師常が、鎌倉時代初期の武将千葉常胤の次男で、師常が父常胤より相馬郡相馬御厨を相続されたことに始まります。相馬氏は後に陸奥国宇多郡・行方郡に移住することにより、現在の福島県の相馬郡・相馬市・南相馬市誕生につながります。また、移住する前の土地である相馬御厨は、下総国相馬郡とほぼ同義で、ここから、北相馬郡・南相馬郡が生れ、そのうち南相馬郡が消滅。北相馬郡も多くの村の統合・市制化による郡からの離脱がすすみ、「利根町」のみの北相馬郡となっている、というのが現状です。(以上、Wikipedia より引用)
参考
群馬県に「利根郡」があります。明治11年(1878)に行政区画として発足しましたが、利根町、相馬郡とは直接、関係はありません。
時代 | 年号 | 西暦 | 群馬県 | 福島県 | 茨城県 | 千葉県 | 備考 | ||
〜鎌倉時代〜 | 宇多郡 | 行方郡 | 移住← | 下総国相馬郡(相馬御厨) | 相馬氏(一部)移住 | ||||
明治 | 6 | 1873 | ↓ | ↓ | (千葉県)相馬郡 | ||||
8 | 1875 | ↓ | ↓ | 相馬郡(茨城県) | ↓ | 利根川を境に相馬郡分割 | |||
11 | 1878 | 利根郡 | ↓ | ↓ | ↓ | 南相馬郡 | 南相馬郡発足・利根郡発足 | ||
12 | 1879 | ↓ | ↓ | ↓ | 北相馬郡 | ↓ | 北相馬郡発足・相馬郡消滅 | ||
22 | 1889 | ↓ | ↓ | ↓ | 町村統合 | ↓ | 文・文間・東文間・布川 | ||
29 | 1896 | ↓ | 相馬郡 | ↓ | ↓ | 相馬郡発足/宇多・行方郡消滅 | |||
30 | 1897 | ↓ | ↓ | ↓ | 東葛飾郡 | 南相馬郡消滅 | |||
昭和 | 29 | 1954 | ↓ | ↓ | 相馬市 | ↓ | ↓ | 相馬市発足(相馬郡より離脱) | |
30 | 1955 | ↓ | ↓ | ↓ | ↓ 利根町発足 | ↓ | 利根町発足(4地区合併) | ||
45 | 1970 | ↓ | ↓ | ↓ | ↓→取手市離脱 | ↓ | |||
平成 | 14 | 2002 | ↓ | ↓ | ↓ | ↓→守谷市離脱 | ↓ | ||
17 | 2005 | ↓ | ↓ | ↓ | ↴ | ↓→藤代町離脱 | 柏市 | 北相馬郡利根町のみ・東葛飾郡消滅 | |
18 | 2006 | ↓ | ↓ | ↓ | 南相馬市 | ↓ | 南相馬市発足(相馬郡より離脱) | ||
26 | 2014 | 利根郡 | 相馬郡 | 相馬市 | 南相馬市 | 北相馬郡=利根町 | |||
県 | 群馬県 | 福島県 | 茨城県 | 千葉県 | (2014/05/01現在) |
※ (ご注意)村単位で他の町・市への編入により、離脱した項目は省略させていただきました。
かつて下総国相馬郡のほとんどが「千葉県」だったのに、現在の千葉県に「相馬」の名が見えないのは寂しい気がします。
利根町の人口
▼ 平成26年5月1日現在、人口(男/女) 17,276人(8,471人/8,805人)世帯数 6,864世帯
▼ 昭和30年(1955)、「利根町」が誕生したときの合併時の人口は、約9800人、1800戸。
▼ 昭和60年(1985)12月には、人口20,000人を突破し、人口増加率県内第1位を記録。
▼ 昭和60年とはバブルの絶頂期の手前。tanupon が移住してきたのは昭和58年(1983)。
▼ バブルがはじけてからは、高齢化・少子化で、若い人の人口は下がる一方。
都心へのアクセスは最悪で、若者がみな出てゆくのは当然の環境です。あと20年後はどうなっていることでしょう。
→ 利根町の未来は・・・若草大橋 参照
▼ 町の沿革については、利根町HP先達、豊島昌三氏の「豊島ホームページ」 利根町の紹介 をご覧ください。
利根町の章(町章)
以下のように、利根町HPに記されています。
利根町の頭文字の「と」が図案化されて2つ組み合わされ、円形は、あさひを表します。
単純な図形の中に円満融和と希望発展が象徴されています。
町民からの公募により、決定しました。(昭和40年1月制定)
考案された方には悪いのですが、何かに似ているなあと。
・・・・・・思い出しました。旧電電公社のロゴマークです。
← 左がそのマーク。うーーん、ちょっとちがいますかね?
大企業と異なって自治体・官庁はCMをやらないので、ほとんど認知されませんね。
東京都は清掃車をよく見かけるので公孫樹のシンボルマークは記憶があります。
利根町の花
利根町の花は、「カンナ」、ということです。
これも町民から募集し、昭和48年に制定されました。
そういえば、なぜかとくにこの花だけ撮ってはいないのですが、
田圃の脇などで咲いているのをよく見かけました。
かといって、他の花より格別に多く見かける、
というわけでもありません。
利根町との関連がちょっと希薄に思いますが、
美しい花なら、まあ、どれでもいいのかと・・・。
利根町の木
利根町の木は、「サクラ」。
利根町の花と同様に、町民からの募集で昭和48年に制定。
左写真は、tanupon が勝手に名付けた「桜公園」。(2009年時)。
ここはなかなか樹勢もよく、美しい花を咲かせます。
ほかに 早尾の梅園付近 や 花輪台公園 もいいですね。
でも、利根町の歴史をひもとくなら、
赤松宗旦が『利根川図志』で述べている様に、
「押付新田の桃」が利根町には合っているのではないかと・・・。
でも、現在は、モモ畑はなく、また育てるのも難しいとか。
利根川遊歩道にも2005年、町民からの支援で182本の桜が植樹 されました。
つい先日(2014/05/17)数えてみるとやはり183本。看板に記されたのは182本。1本はだれのもの?
現在、順調に育っています。まあ、桜は国花でもあるし、いいですかね。
利根町の鳥
利根町HPに、利根町でよく見るのは、「オオヨシキリ」で、オスは「ギョギョシ ギョギョシ」あるいは「ケケシ ケケシ」とさえずり、利根川をはじめ町内随所のアシ原で見られます。全長約18p、体色は薄茶色。さえずると口の中が赤く見えます。国際森林年を記念して町民から募集、決定しました。【昭和60年8月1日制定】 とあります。
鳥の撮影は難しいので、tanupon はあまりくわしくありません。
「国際森林年」は1985年(昭和60年)に国連が定めたもので、
2011年に2回目云々という記事もありますが、
2006年の国連総会で、という別の紹介記事もあり、よくわかりません。
それはともかく、民家の近くまでヨシキリはきているのかしらん?
利根町の文化財は、現在(2014/05/01)、国指定重要文化財1、県指定1、町指定29、合計31項目が指定されています。
個人的には、以下のものは、ぜひ文化財の追加指定をしてほしいところです。
ただ、町の指定をされても、補助的にはなにもなし、というのが情けない話ですが・・・。
(以下の表で名称欄の各項目で、コンテンツにリンクします。リンクがないものはまだコンテンツ作成していません)
指定区分 | 種類 | 名称 | 所在地・所蔵所 | 所有者 |
国 | 工芸品 | 金銅板両界曼荼羅 | 東京国立博物館 | 徳満寺 |
県 | 無形文化財 | 利根地固め唄 | 生涯学習センター | 地固め唄保存会 |
町 | 建造物 | 蛟蝄神社(門の宮・奥の宮) | 立木2184・882 | 蛟蝄神社 |
町 | 建造物 | 赤門 | 来見寺 | 来見寺 |
町 | 建造物 | 北用水樋門 | 立木2308−1 | 豊田新利根土地改良区 |
町 | 絵画 | 間引き絵馬 | 徳満寺 | 徳満寺 |
町 | 絵画 | 雨乞い絵馬 | 蛟蝄神社 | 蛟蝄神社 |
町 | 絵画 | 杉野嵩雲絵馬(水難救助図) | 琴平神社 | 琴平神社 |
町 | 絵画 | 布川河岸絵馬 | 琴平神社 | 琴平神社 |
町 | 絵画 | 搾油絵馬 | 琴平神社 | 琴平神社 |
町 | 絵画 | 神功皇后と武内宿祢絵馬 | 布川神社 | 布川神社 |
町 | 絵画 | 宇治川先陣争い絵馬 | 布川神社 | 布川神社 |
町 | 絵画 | 天の岩戸絵馬 | 布川神社 | 布川神社 |
町 | 彫刻 | 木造地蔵菩薩立像 | 徳満寺 | 徳満寺 |
町 | 彫刻 | 木造不動明王坐像 | 布川不動尊 | 布川・布川不動尊 |
町 | 彫刻 | 木造大日如来坐像 | 布川不動尊 | 布川・布川不動尊 |
町 | 彫刻 | 木造仁王像 | 泉光寺 | 泉光寺 |
町 | 彫刻 | 木造観世音菩薩立像 | 泉光寺 | 泉光寺 |
町 | 彫刻 | 木造両界大日如来坐像 | 歴史民俗資料館 | 利根町 |
町 | 彫刻 | 木造阿弥陀如来座像 | 歴史民俗資料館 | 惣新田地区 |
町 | 工芸品 | 小川家氏神 | 柳田國男記念公苑 | 利根町 |
町 | 工芸品 | 杉野東山篆額 | 琴平神社 | 琴平神社 |
町 | 古文書 | 吉浜家文書 | 歴史民俗資料館 | 利根町 |
町 | 考古資料 | 貞和銘板碑 | 歴史民俗資料館 | 利根町 |
町 | 考古資料 | 永仁銘板碑 | 歴史民俗資料館 | 利根町 |
町 | 史跡 | 布川城跡 | 布川3004ほか | 徳満寺ほか |
町 | 史跡 | 立木貝塚 | 立木2184ほか | 蛟蝄神社 |
町 | 史跡 | 花輪台貝塚 | 早尾200−201 | 利根町 |
町 | 史跡 | 赤松宗旦旧居跡 | 布川3409 | 利根町 |
町 | 史跡 | 布川貝塚 | 布川2857 | 豊島昌三ほか |
町 | 史跡 | 鎌倉街道 | 町道1213号線 | 利根町 |
(14/05/19)