タヌポンの利根ぽんぽ行 下井地区と稲荷大明神

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新利根川の南を走る農免道路に沿って押付新田から東に進むと、
北の下井地区へと続く小路があり、そこにはのどかな雰囲気が漂っています。

その小路を北に少し進むとわずか2.3mの川幅の新利根川に小さな橋が架かっています。
その橋を渡ってしばらく行くと左手に万人講とだけ記された石祠があります。
当初不明でしたが、つい最近になってこれがなになのか判明しました。

その石祠を過ぎれば、すぐに下井の稲荷大明神と集会所になります。
下井地区の中心的な存在です。ここも当初訪問時より現在は若干の変化がみられます。

本コンテンツはサイト開設間もないころに当該地区を訪問・撮影し、
その翌年2006年に内容をまとめました。それから約6年の月日が経ちました。
東日本大震災が勃発したためとも思われる本殿石祠の再建等もありますが、
あらたに判明した石仏・石祠の内容等、タイトル・目次変更を含めて追記再構成しました

なお下井の稲荷大明神や集会所の場所に行くには、
利根町図書館や公民館側から南下して行く方法もありますが、
細道が続き、曲がり角などありちょっと説明しづらい場所になります。
南の農免道路から行くほうが分かりやすいと思います。

なお、2014年夏、石造物データの更新を目的に再調査。
新たな発見や疑問等も含めて、当該項目を全般的に追記・更新しました。


利根町西部マップ

利根町西部マップ

下井地区入口

のどかですねえ。ここが、さきほど説明した新利根川に架かる小さな橋と川の景色です。
農道であったところを舗装しただけの、そうですね、小さなクルマが1台しか通れない道幅です。
♪春の小川は〜という歌を思い出しますが写真は8月の様子です。
水は蒼く、田んぼには刈り入れ前の稲が黄金色に揺れています。

さて、この下井地区ですが、元は、江戸時代から下曾根新田の通称として使われ、
昭和30年(1955)の町村合併で正式大字名に採用されたということです。下曾根新田の名は現在はありませんね。

田園風景

下井入口 小川

5月時、入口の農免道路沿いでは、
満開の藤棚を楽しむこともできます。

藤棚

ちなみに、利根町の川に架かる橋で、上記の小橋だけは、調べても訊ねても、名前が分かりません。
それに、橋に沿って梯子のついたコンクリート製の建造物が設置されていますが、これも実は何なのか分かりません。
灌漑用の何かの施設なのだと思いますが、土木関係に精しくないので正直、さっぱり用途が不明です。
いちど梯子を登ってみようかという誘惑にかられましたが、大した成果が得られそうもなく断念しました(笑)。

この橋を渡りしばらく行くと、稲荷大明神のところに着きますが、その直前、道路の左側に石祠が立っています。

イボ神様

イボ神様 明治24年3月

当初、窮余の一策で、
台座の部分に「万人講」とあるので
万人講の石祠として紹介しましたが、
石祠の前の扉も開けられないし、
手がかりはまったくありません。

石祠の右サイドには
明治廿四年三月日
明治24年(1891)3月と
建立日が記されています。

本体: 高70cm、幅43cm、厚35cm。台石: 高16cm、幅45cm、厚38cm。

イボ取りわら

今回、再編成するにあたって、この石祠に関しては、
ほんとうに珍しいやり方で調査しました。
珍しいといってもタヌポンにとっては、のことです。
いままでほんの1.2回しかない、突然の訪問調査です。
アポなしの訪問は迷惑でしょうし、あまりやりたくないのです。
最初は、少し北で農作業されている方に訊ねたのですが、
なんと「わたしは新参者で・・・」と意外な返答。
そのかわり下井地区の旧家を紹介していただきました。
成り行き上、訪問してみるしかなくなったのです。

でもその結果、「イボ神様」ということが判明しました。

利根町では、初めての発見です。そんなものがあるのか、と検索してみると、全国にも「イボ神様」はあるようなのですね。
利根町のこのイボ神様では、上の写真にあるように、ワラ紐のようにものでこすると、イボがとれる、ということです。
また、治った人は、新しい藁束を作ってお礼参りをしました。この石宮が建てられたのは前述の明治24年ですが、
その当時は、下曽根新田と呼ばれ、しかも場所は、現在地から東の新利根川沿いにありました。
こちらに遷座されたのは、昭和58年(1983)11月ということで、同年には八枚橋がコンクリート橋に掛け替えられるほか、
新道の拡張工事も行われました。その一環で、遷座されたのかも知れません。(13/07/18 追記)

迷信的なもののように思いますし、現代医学では、液体窒素などで除去するとかいろいろ科学的方法があるようです。
タヌポンも子供の頃、人差し指に魚の目がありましたがある朝、ウソの様に忽然と消えていて実に不思議な思いをしました。
それで、栄養のバランスのせいかと思っていたのですが、調べてみると、細菌性のものとかいろいろ種類もあるようです。
治療・除去はアッという間に終わるものもあるようですが、保険が適用されず数万円かかる場合もあるようです。
手の場合はそれほど苦痛はなかったのですが、足の裏などにできる人もいてこれはそうとうな痛みで厄介なもののようです。
現代でも悩んでいる人がいるんですね。「イボ神様」が治してくれるのなら、それにこしたことはないのですが・・・。
しかし、この場合、石祠は神道系なのかしら?神道でも仏教系でもなく、道教でもなく、民間信仰ということなのでしょうか。

下井の稲荷大明神

稲荷大明神外観

さて、イボ神様の石祠のすぐ隣りは
稲荷大明神の境内なのか、それとも
下井の集会所の敷地というべきか。

鳥居や手水をはじめ、改築記念碑や
庚申塔、そして大師や石仏などが
ここに集められているような感じです。

まずは、稲荷大明神関連の施設から
見てみましょう。

2011年の大震災を経て、
大きく変化したと思われるのは、
本殿の石祠の新築ですが、
倒壊したのでしょうか。
また、眷属の狐のほかに(狸ではなく)
狛犬があったのですが見えません。
地震で石祠が落ちて狛犬も犠牲に?

鳥居

鳥居

明神鳥居で、左は2005年時の写真。
まだ新しくきれいに見えます。
常夜燈の後に小さく狛犬が見えますが
前述のように現在はありません。

下は、柱の裏側。
平成9年(1997)7月建立。
同時期に建てられたものが、
ほかにもいくつかありますが、
地震の影響はなかったようです。

鳥居の柱裏

神額

神額

この額も、鳥居と同時期に新築されたもののようです。
この写真も2005年時のもので、現在は、少し黒ずんでいます。

さて、鳥居の両脇にいろいろ建造物があるのですが、
それは後にして、まっすぐ進んで本殿から説明します。

本殿

本殿 旧本殿

これが稲荷大明神の本殿。
←左が現在。↑上が2005年時。
ちがいは、本殿上部の石祠と狛犬。
そして、なんとキツネも、
よく見ると新しく造られたようです。

祭神は全国共通、倉稲魂命
(うかのみたまのみこと)。
伏見稲荷大社の主祭神で、
宇迦之御魂神とも書きます。

稲の生産豊穣を守護する神で、イナリとは「稲生り(イネナリ)」が語源の一説。この稲荷大明神の祭礼は、正月15日。
2月の初午には幟が立つそうです。でも由緒沿革はくわしいことは分かっていません。

東日本大震災直後の再建

石祠の裏(下右)を見ると、「平成23年(2011)5月再建」とあります。震災直後ですね。

本殿UP 本殿背面

本殿左に旧石祠や眷属のキツネなどが無造作に置かれていました。狛犬も1基だけ見えますね。
キツネはあまり破損した様子はありませんが、石祠が地震で落下したための再建でついでに新造したものでしょうか。
おそらく、旧石祠が左側手前方向に落下し、左の狛犬を大破してしまった、それで、狛犬は1基しか残っていない・・・。
そして、眷属は稲荷神社だからキツネだけで狛犬はもう要らないだろうということで・・・と推理しましたが、さて真相は?

廃棄された眷属など 本殿裏の石祠

上右の写真は本殿の真後ろにある石祠。もっと古い本殿なのか、別の境内社なのか、中をよく見ていないのでなんとも。

氏子中

本殿石祠の台座にある言葉、最初、右から「民・学・栄」と読んで???人と学問の発展を祈願するということ?などと。
これは、「氏・子・中」。氏子中なのですね。しかし、石工の人はどうしてこんな「ヘンな遊び」をするんでしょう(笑)。
氏子の字はともかく、「中」の四方の点は、飾り?石が欠け落ちないようにする配慮とかいいますが、これでは逆効果では?
とにかく、異体字などタヌポンにはとても理解のできないものが多いです。なにか特別な法則はあるのでしょうか。

氏子中 台座左側面

台座の左側面には、「明治七歳 甲戌十一月吉日」。明治7年(1874)11月の建立と世話人の名前が彫られています。
右から、「卋話人 宮本利右衛門 永田吉右衛門 大竹治兵衛 油原彌治右エ門」。
この4名の中には、「イボ神様」のことを尋ねた旧家の苗字がありました。その節はありがとうございました。

台座右側面

左は台石の右側面。
石工 布佐村 堀田彌亟」とあります。

『利根町史』にある「石祠 明治7年(1874)氏子中建立」は、
この台石を含めたものと言えそうです。
したがって、左に廃棄された石祠のほうも、
明治7年(1874)建立ということになります。
建立日が同じでセットになっていたものも、
こうして、震災後に石祠部分だけ再建されたように、
月日の変遷で状態も変化していくということですね。

本体: 高106cm、幅67cm、厚64cm。台石: 高38cm、幅87cm、厚90cm。ブロック台: 高76cm、幅146cm、厚149cm。

キツネ新旧

下の2つの写真はいずれも新キツネ。石祠と同様「平成23年(2011)5月」奉納と思われます。奉納者は「河村一男」。

新キツネ キツネ右背面

以下は、左が新、右が同位置にあった旧のキツネ。耳の形と表情が少しちがうくらいで大差はないような・・・。
新しいほうは巻物か何かくわえているような感じも。でもそんなこといえば、旧キツネも口に何か入れているような・・・。

キツネ左 キツネ右

本体: 高50cm、幅14cm、厚37cm。

ありし日の狛犬

以下は、震災直前まではあったと思われる狛犬。2005年時の写真です。現在、定位置には何も置かれていません。
稲荷神社に、眷属がキツネと狛犬両方あっても、とくに不自然な感じはしませんでしたが、何か決まりはあるのでしょうか。

狛犬左 狛犬右

余談:眷属の話はともかく、酒好きタヌポンは本殿前に「鬼ごろし」のお供えがあったのが気になっています。
撮影に邪魔だからどかそうと思ったら、まだ1パックたっぷり入っていましたのでそのままにして撮りました。
「鬼ごろし」のある銀座の居酒屋にはとんとご無沙汰してますが・・・あれっ?あの酒は「底ぬけ」か。まちがえました。

キツネのいない稲荷様

1980年代に発行された利根町の広報誌に、表題の興味深い記事が載っていました。以下、転載します。

・・・下井の鎮守として新利根川沿いに稲荷社があります。木製の鳥居があって、稲荷大明神の社額が掲げてあります。本殿は石造りで、明治7年11月に氏子中によって建立されました。社前には、キッネではなく2基のこま犬が置かれているのが奇妙です。語り伝えるところによれば、堂宇が石造りになって、それまで縁の下に住みついていたキツネの住むところが無くなってしまいました。キツネは、毎晩コンコンと泣き悲しみましたが、そのままにしておいたところ、いつのまにかいなくなってしまったといいます。それ以来、キツネのいない稲荷様といわれているのだそうです。

なるほど。以前はキツネはなかったのですね。現在の様子からではこの話は風化してしまいそうです。(13/07/18 追記)

常夜燈

これは、鳥居と同様の平成9年(1997)7月建立のもの。奉納者は「永田重左エ門 永田 久」。
常夜燈は、神社では地震でいちばん倒壊・破損しやすいものに思われますが、対の2基とも無事だったようです。

常夜燈 常夜燈背面

本体: 高153cm。

鳥居改築記念碑

記念碑 記念碑裏

境内奥本殿からまた入口付近に戻って、鳥居の右脇に
鳥居改築記念碑が建てられています。
碑の裏は「平成九年(1997)七月吉日」ですが、
この日付で建てられたものは鳥居だけではありません。
神額もむろんそうですが、前述の常夜燈も同時期。
さらに以下で紹介する手水もそうです。
碑の裏面が砂埃で汚れているように見えたので、
持参したタオルを持ってきて拭いてみたのですが・・・。
なんと、砂埃に見えたものは、石の風化によるものでした。
拭いても消えません。表面はきれいなのに不思議ですね。

下井区長星野□□□□□□永田
□□□□□油原淳士□□□□□□永田勝久
□□□□□小林紀男□□□□□□大竹康裕
□□□□□渡辺正夫□□□□□□鎌田順夫
□□□□□河村一男□□□□□□星野貴司
□□□□□軽部盛和□□□□□□森田信男
□□□□□渡辺友則□□世話人油原良文
□□□□□宮本忠夫□□世話人渡辺勝敏
□□□□□小島

本体: 高74cm、幅61cm、厚7cm。


新旧手水

鳥居の左脇には、新しい手水があります。これは前述の鳥居の改築と同時期、平成9年7月、奉納者「森田信男」。

手水 手水側面

本体: 高42cm、幅75cm、厚45cm。

記念碑の右にあるのは古い手水。右側面をよく見ると、「昭和十一年(1936)九月」「油原」氏の奉納です。
新しい手水のほうが少し大きめですが機能的には大差がないような。水道の蛇口が付いていると便利かななどと・・・。

旧手水 旧手水側面

本体: 高42cm、幅44cm、厚29cm。

庚申塔1

庚申塔

記念碑の背後には
庚申塔が建てられています。
白く見えるのは石の欠損ではなく
トリのフンのようです。

以前のコンテンツでは、
建立時期が不明と記しましたが、
安政四巳年 十一月吉日」。
安政4年(1857)11月の建立です。

本体: 高83cm、幅51cm、厚13cm。

庚申塔拡大

道祖神

道祖神

庚申塔から道路側に戻ると、
道祖神が道路向きに建っています。

当初撮影したときよりも、
周囲がしっかりと固定されています。
これも震災後の処置でしょうか。

石祠を近くで見てみると(下左)、
文化三寅天 □月吉日
文化3年(1806)が読み取れます。

サイドに記されている(下右)
西口講中」の西口とは
下井の西口という地名でしょうか。

なお、右下写真は2005年時のもの。
石祠周囲の様子の現在とのちがいが
少し分かると思います。

本体: 高45cm、幅29cm、厚25cm。

道祖神UP 道祖神右側面

ちなみに、上右写真のお供え物はナスで、二股になったもの。こうした野菜等を道祖神にお供えする習慣があるようです。
→ 立崎下坪の道祖神(道陸神)祭礼と風習 参照。

下井集会所

下井集会所

境内右手奥、ブランコの背後に下井集会所があります。
とくに看板は設置されていないように思いますが、
シャッター等の陰に隠れているのかも知れません。

ここから以降で紹介する事項は、
稲荷大明神のコンテンツですが、
稲荷神社の境内というよりは、
下井集会場の敷地に設置されたもの、
と考えた方が妥当かもしれません。

四郡大師と石仏

四郡大師と石仏

稲荷大明神境内の奥、というか、
下井集会場前にある大師を挟んで
左右で10基ほどの石仏が
並んで建てられています。
『利根町史』には、
「月待供養塔 延宝3年
(1675)ほか7基」とあります。
『町史』と実際とで数が合わないのは
多々あり、もう慣れましたが、
はたして延宝3年建立の
月待供養塔はどれなのでしょうか。

下井の大師

大師

これが大師堂。番号札はありません。
でもいままで見た大師の祠とはちょっとイメージがちがいます。
昔よくあった白い土蔵のような造りになっています。

下は2005年時撮影の扉。現在は格子の扉に変化しています。
改築時期は不明ですが、こまめに修理等されているのですね。

ところで、下井地区の大師といえば、
少し北の下曽根地区にある 大師5番 が気になります。
どちらが「本来の下井地区の大師」なのでしょうか。

2005年の大師堂扉
大師像

扉を開けて中を見てみると・・・左の写真。

左大師本体: 高36cm、幅27cm、厚17cm。
右大師本体: 高34cm、幅24cm、厚18cm。

大師堂左の石仏7基

左石仏

大師が仏教関連なので、
これらの石仏もすべて仏教系で、
神道系のものはないようです。
道祖神以外は、基本的に、
石塔の多くは仏教系なのですが・・・。

一見して、『利根町史』の月待塔は、
この7基にあるとすれば、
左から3番目が候補に思われますが、
はたしてどうでしょうか。

六地蔵塔

六地蔵塔 六地蔵塔右側面

これは六地蔵を彫ったものです。
利根町ではここで初めて見ました。

六地蔵の信仰は、
平安末期に始まったもので
六道を輪廻転生する衆生を
地蔵が救済することから、
6つの分身を考えて
六地蔵としたということです。

右側面に、「文化七午五月吉日
文化7年(1810)の建立。
ほかに「願主 歓□ 村講中」とあります。

本体: 高66cm、幅26cm、厚22cm。

庚申塔2

庚申塔2 庚申塔2右側面

風化で見づらいですが、
上部に日月のレリーフ、中央には
邪鬼を踏みつけた1面6臂の青面金剛像。
三又の戈や法輪、矢などを持っています。
下部には三猿も見られます。
典型的な庚申刻像塔です。

また、右側面には、
寛政十二庚申十一月吉日」。
寛政12年(1800)11月の建立ですが、
この年の干支は、まさに「庚申」。

さらに「下曽根新田
久左エ門 □□□ □兵エ」の名も。
ちなみに、下曽根新田とは下井の旧名。

本体: 高60cm、幅28cm、厚17cm。

十九夜塔1

左上にかすかに「延宝」の文字が読めます。『利根町史』に記された延宝3年(1675)建立の月待供養塔と考えられます。

十九夜塔1 十九夜塔1 十九夜塔1

上中央は塔の左上部分。「延宝三乙夘十月十九日 同行十八人」と読めます。右上は「奉造立十九夜供養二世安楽」。

それにしても、半跏思惟型の如意輪観音像の月待塔は数多く見つかります。
「月待ち」と「念仏供養」の意味合いは別次元という説明がされた文献を見かけますが、その意味合いはともかくとして・・・。
野田市の石仏研究家石田年子氏によれば、とくにこの如意輪観音に関しては、女性だけに課せられた過酷・不当な「迷信」、
いわゆる「血の池地獄」から救ってくれるものとして利根川流域では爆発的に女性の支持を得て広まったとのこと。
そのためか、如意輪観音は十九夜本尊なのに、利根町では十九夜以外でも如意輪観音を刻像する傾向があるようです。

本体: 高67cm、幅36cm、厚22cm。

墓塔3基

墓塔 墓塔2 墓塔3
墓塔2左側面

次の3基は、いずれも戒名等を記した墓塔と思われます。
左写真は、上の真ん中の墓塔の左側面で、文政2年(1819)の建立。
ただし、11月22日と同年12月5日の2つの日付が彫られています。
これはどういう意味でしょうか。相次いで他界したということでしょうか。

以下、左の墓塔より。
本体: 高72cm、幅29cm、厚19cm。
本体: 高66cm、幅27cm、厚18cm。
本体: 高71cm、幅30cm、厚16cm。

巡拝塔

巡拝塔 巡拝塔右側面 巡拝塔左側面

上部左部分が少し剥落・欠損していますが、表面は、「奉納西國秩父坂東百番供養塔」と読めます。
西国33ヵ所・坂東33ヵ所・秩父34ヵ所、合計100ヵ所の巡礼記念の塔です。
左側面(上右写真)には、「文政八年酉歳十一月吉日」とあり、文政8年(1825)11月建立が分かるのですが、
右側面(中央写真)には、「載譽良運光耀信士灵」の戒名に加えて、左右に「維持文政八酉天 十二月□日」が見えます。
月日の部分が少し欠損してはっきりしませんが、11月の建立と12月銘でひと月のちがいがあるのはなぜでしょうか。
戒名の信士の後の「灵」は「霊」の異体字で、実際は、上部がカタカナの「ヨ」に下が「灬」という同様の異体字です。
さらに左側面の文政の「政」も、二宮神社の鳥居 でも見かけた偏と旁が縦になった異体字を使用しています。
また表面の「塔」の異体字はまるで「塩」?この時代の石工たちはアーティストなのか何なのか得体が知れないです(笑)。

本体: 高67cm、幅28cm、厚19cm。

大師堂右の石仏3基

右石仏

大師堂右には、3基並んでいますが、
その右側に台座のようなものが2つ
追加で置かれています。
何かが設置されていたのでしょうか。

廻国塔

廻国供養塔

中央に「奉納大乗妙典日本囬國六十六部供養」とあります。
これは、要するに「大乗妙典」=「法華経の経典」を書写し、
六十六部、つまり全国六十六箇所の霊場をめぐ(回国=廻国)って、
その法華経を奉納する、その供養のことを指します。
六十六部は単に六部と省略されて呼ぶ場合もありますが、
経典の部数というより、廻国する人や行者のことも指すようです。
なお、「供養」の文字の下に「塔」が隠れている可能性もあります。

ほかに左右に「天下和順 日月清明」の決まり文句。
天明八申年 十月吉日」と「下総國相馬郡 下井村信者
天明8年(1788)10月、行者による下井村での建立です。

▼ あれっ?この時代で既に、下曽根新田の名から下井に変更になっていた?
これはちょっとおかしいですね。明治でも「下曽根新田」の名は残っていたハズ。
『利根町史』第6巻には、「下曽根新田は現在の下井の旧村名」と記され、
下曽根新田の名のおそらく初出の史料として、下井の永田久家の『往古之覚書』に、
「寛永7年(1630)下曽根村と同じ奉行の検地を受けた」と記されています。
下曽根新田が正式に下井と変更になったのはいつなのか未確認ですが、
少なくとも「下井」という名は天明8年(1788)時点で存在していたことになります。

▼ この塔に「下井村」と記されていたこと自体が仮に誤記だとしても、下井という呼称が存在していたことは確実であり、
もしかすると、一時的に「下曽根新田村」と「下井村」が共存していた可能性も否定できない気もします。
このあたりの真実はどうなのでしょうか。少し調べてみる必要があります。
▼ タヌポンの勝手な推理では、この塔の建立者はいわゆる他国から来た修験者。「下曽根新田村」などという長い名前より、
地元の人が「通称」で使用していた正式村名ではない「下井村」を石工に伝えてしまったため、こうなってしまった・・・などと。

あっ!このコンテンツ冒頭の 下井地区入口 で、以下のようにタヌポン自身が説明しているではないですか!

「さて、この下井地区ですが、元は、江戸時代から下曾根新田の通称として使われ、昭和30年(1955)の町村合併で正式大字名に採用されたということです。下曾根新田の名は現在はありませんね」。

当初の記述なので、今回の追記ではすっかり忘れていました。おそらく『利根町史』のどこかに掲載されていた事項でしょう。
でも、推理は当たりました。「下井」名は、「通称」としてかなり昔から存在していたようです。これにて、一件落着。

本体: 高110cm、幅41cm、厚26cm。

庚申塔3

1面6臂の青面金剛の刻像塔。邪鬼を踏みつけています。表情のないアーモンド形の頭部、法輪と棒、弓矢を持っています。
上部に「奉造立庚申」とあります。定番の「日月」のレリーフは見当りません。

庚申塔3 庚申塔3上部拡大
庚申塔3左上拡大 庚申塔3左下拡大

左上に「□保元申天十一月□日」。
□が欠損していますが、元年そして
申年なので、天保・寛保ではなく、
享保元年(1716)年11月建立です。

左下部分には「同行十四人」。
「十」は推定です。

下写真は、右下部分の拡大。
下曽根新田村」とあります。
前記の廻国塔表記が正しければ、
この庚申塔造立後70数年の間に、
下曽根新田村から下井村へと
村名が変更されたことになります。
どうも、そのようなことが起ったとは
想定できないような気がしますが・・・。
さて、真相は・・・。(上記 で解決)

庚申塔3右下拡大
庚申塔3下部拡大

邪鬼を踏みつけた足元、邪鬼の下に、
「三猿」が彫られている場合が多いのですが、
この庚申塔ではどうも猿はなさそうに見えます。

ブロックをどかしてよく見てみようと思ったのですが、
確かブロック自体がなにか固定されているような感じでした。
もしかすると、小さな刻像がされているかも知れません。

本体: 高84cm、幅45cm、厚24cm。

十九夜塔2

十九夜塔2 十九夜塔2左上拡大 十九夜塔2右上拡大

中央は、如意輪観音像。右に、「奉造立十□□念佛供養」とあり、左には「元禄六癸酉天十月十九日」の文字が見えます。
どうしてよりによってこんな肝心のところが欠損しているのかと思ったりしますが、右側の文字の□□の個所です。
これだけでは、十九なのか、十六なのか、それとも十五なのか、判定不可能なのですが、幸いなことに・・・。

左上にある「十月十九日」で、これが十九夜塔であることが「十中八九」断定していいかと考えられます。
十九夜塔の場合、ほかの塔のように「・・・月吉日」よりも圧倒的に「十九日」指定、なかでも「十月十九日」が多いですね。
この陰暦十月十九日は、現代暦では暑い夏が終わり、やっと涼しい、いい季節になったころでしょうか、
ハレ(晴れ)とケ(褻)でいえば、この日は、昔の女性たちにとっては特別の「晴れ」の日だったのではないでしょうか。

元禄6年(1693)10月19日の建立、「同行拾五人」による月待ちイベントです。

本体: 高85cm、幅37cm、厚22cm。


(14/07/16・13/07/18 追記) (12/06/05 追記再構成) (07/05/27 追記) (06/04/23) (撮影 14/07/14・12/05/08・09/03/21・09/03/05・07/05/05・05/08/20)


本コンテンツの石造物データ → 下井地区石造物一覧.xlsx(17KB)