タヌポンにとっていちばん身近な利根町のお寺といえば徳満寺。
千葉県我孫子市布佐から県境の利根川栄橋を渡り利根町役場との間の高台にあります。
徳満寺の地蔵堂には通称「子育て地蔵」と呼ばれる本尊の菩薩様があり、
毎年11月末に開催される地蔵市(現地蔵祭り)で開帳されるなど
祭りとともに、古くから町の人びとに親しまれています。
徳満寺は海珠山徳満寺といい、利根町を代表するお寺で、宗派は、新義真言宗。
由緒としては、元亀2年(1571)祐誠上人が開山。
慶長9年(1604)には寺領20石を拝領しています。
さて、身近な徳満寺ですので、このコンテンツの第1稿は、比較的早い時期にUPしました。
しかし、「近くだからいつでも行ける」というアクセスが逆に災いし、
コンテンツの見直し・更新・再構成がかなり遅くなってしまいました。
やっと2012年夏に、再編成に取り掛かりましたが、内容が2倍以上に膨らみ、
1ページではあまりにも煩瑣な構成になってしまいます。
そこで、この機に2つに分離し、大幅な再構成に踏み切りました。
この徳満寺1では、基本的な概要と主な境内施設を中心に紹介し、
徳満寺2で、境内や山門下の石碑・石塔・石仏関連、
そして比較的新しく築造された石像などを紹介します。
また、徳満寺には巨木や珍しい樹木が多く、
これらも順次、徳満寺2に追記していきたいと考えています。
徳満寺2に移行させた主な項目:
→ 日本最古の十九夜塔
→ 宝篋印塔
→ 小林一茶の句碑
→ 利根七福神 毘沙門天
徳満寺所在地:〒300−1622 利根町布川3004 TEL:0297−68−2442
★ 2015年3月、全般的に誤謬の訂正、写真の差換え、石仏サイズの追加等々、
微妙ですが、更新しました。
徳満寺は我孫子市から栄橋を渡って最初に発見する、いわば利根町の玄関に相当する名刹です。
旧名「府川」の発祥となった城跡も、県道側の境内入口に残っているほか、
寺宝の 金銅板両界曼荼羅 は利根町唯一の 国指定重要文化財 です。
『利根町史』ほかによれば、徳満寺の由緒としては以下。
元亀年間(1570〜1572)祐誠上人の開山。慶長9年(1604)寺領20石。本寺は新治郡大岩田村法泉寺。
寺域は豊島氏の城跡で、境内の西に空墟(からぼり)、北に徒歩坂(かちざか)等がある。
本寺について『町史』には上記のように記されていますが、江戸時代、布川の発展にともない徳満寺も規模がおおきくなり、
徳満寺自体が、末寺26ヵ寺を配下におく本寺となっていると赤松宗旦の『布川案内記』に記されています。
☆ 徳満寺住職のお話しでは、元亀年間は、元亀2年(1571)であることが最近、判明したとか。また開山も「中興」の意味合いのようです。(17/06/28 追記)
境内の一角に案内板が立てられていました。
写真では読みにくいので要旨を以下。
気になるのは、『町史』の「本寺」の記述と、宗旨の「本山」の違いです。「本寺」「本山」は同じ意味と思っていましたが・・・。
『町史』は古い記述で、現在の「本寺」「本山」は、長谷寺ではないのでしょうか。本寺・末寺とは規模によって重複するもの?
→ 参考 『利根町史第五巻』では、徳満寺の本寺は、新治郡大岩田村宝泉寺、と記されています。
身丈約2.2mの木造地蔵菩薩立像
(もくぞうじぞうぼさつりゅうぞう)。
第7世隆鑁(りゅうばん)住職が
元禄年間(1688〜1703)に
地蔵堂を建立し、
京都の六派羅密寺より
勧請したものです。
鎌倉時代の運慶の一子、
法印湛慶の作といわれています。
延命地蔵、子育て地蔵とも
呼ばれています。
利根町指定の有形文化財。
地蔵堂の前に「利根町指定有形文化財」の案内標識が立てられています。「子育て地蔵」の名のいわれを抜粋要約します。
「子育て地蔵」の名は・・・
布川に与兵衛と さだ という夫婦がいて13年目にやっと子宝が授かりました。
しかし権太と名づけられた子供が3歳になったとき江戸の名医もさじを投げるほどの重い病気にかかってしまいました。
夫婦は熱心に地蔵様にお祈りしました。
その7日目のこと、与兵衛のお祈りの最中にどこからともなく地蔵様の声が聞こえ子供を助けてくれると言います。
喜んで家に帰るともう子供は元気になっていました。
これが噂をよび次第に「子育て地蔵」として広まっていったということです。
この本尊は年に1度だけご開帳され
それにあわせて門前に市がたつようになりました。
これが「地蔵市」の始まりで、
左の赤松宗旦『利根川図志』には、
詣人村々より来りて雲の如く、
燈は町々に照しつれて月の如し
と賑わい振りが描かれています。
現在も毎年、11月末から12月初めまでの
土日を挟んだ1週間、開催されています。
(地蔵市は現在「地蔵祭り」と改称されています)
この期間以外は、本尊の地蔵菩薩は、
一般には見ることはできないのです。
徳満寺の寺宝、金銅板両界曼荼羅
(こんどうばんりょうかいまんだら)。
これは、利根町のたったひとつの
国指定重要文化財です。
建久5年(1194)年6月、
筑後国の清楽寺の僧慶弁が、
藤原延次に作らせたもので、
徳川家康の寄進と伝えられています。
曼荼羅は、一面が横約50cm、
縦が約100cmの二面、
金剛界と胎蔵界があり、それぞれ
9板の金銅板から成り立っています。
各板共に尊像筆の重要部分を
打ち出しで現わし、蝶番で結合し、
さらに内陣の周囲を
唐草文様でつづってあります。
曼荼羅は絹本が一般で、金鋼板のものは全国で唯一の逸品。赤松宗旦も『布川案内記』の中で高く評価している作品です。
上の写真は、レプリカで、徳満寺客殿に飾られています。利根町歴史民俗資料館にも同様のレプリカがあります。
左9枚が金剛界 部分、右9枚が胎蔵界 部分です。実際はもっと鮮やかで、重厚なものではないでしょうか。
これは、徳満寺というより既に利根町には存在せず、上野の 東京国立博物館に所蔵 され公開されているということです。
タヌポンはちょっとこれが不満です。利根町の宝なら徳満寺とか、この地の資料館で保存公開すべきではないのでしょうか?
まあ、何か理由があるのでしょうね。調べると、昭和10年(1935)に徳満寺は当時の帝室博物館へ寄託しているとのこと。
→ 『利根町史』を編纂されている宮本和也さんのお話では、国では徳満寺のセキュリティが十分なものになったら、
博物館から返還するということです。なるほど、そういうことなら、まあ、仕方ないですね。国指定重要文化財ですから。
でも、徳川家からの寄進とはいうものの元々は九州福岡の清楽寺に奉納されたもので、現地の研究家諸氏は、曼荼羅が、
徳満寺経由で東京国立博物館に所蔵され国指定重文となっていることを近年になって知って驚いたということです。
なお、国指定重要文化財となったのは、徳満寺から帝室博物館へ寄託された翌年、昭和11年(1936)5月6日のこと。
▼ 曼荼羅とは、「本質を有する」という意味の古代インド語のマンダラの音訳。仏の境地を図式化したものです。
(13/06/24 一部追記)
以下は、境内の案内図をアレンジしたもの。徳満寺1と徳満寺2で紹介するものを分類してあります。
徳満寺1 徳満寺2 各ポイント名をクリックすると当該記事にリンクします。
寺院の入口で、正門というのは山門と呼ばれる門であることを最近になって知りました。三門もしくは山門が正門なのです。
したがって、徳満寺の正門も山門になりますが、前は70段もある石段で、下から山門まで到達するにはひと苦労あります。
しかし、クルマのない昔ならともかく、昨今では、徳満寺もそうですが広い駐車場を備えた大きな寺院も数多くあり、
クルマを止めて石段を登り山門から、というより直接、本堂や墓地に行けるようになっている場合がほとんどです。
とくに町外から徳満寺を訪ねてくる人は、おそらく山門ではない県道沿いの門から境内に入ることになるでしょう。
さて、では、山門も含め徳満寺に入る方法として、大きく分けて3つの方法を紹介します。
また、各それぞれの入口付近にある若干のポイントもこの項目で紹介します。
まず栄橋を渡って県道千葉龍ヶ崎線を北にしばらく進んだ左にある入口。大きな徳満寺の石柱が立っています。
右手は布川保育園。
「真言宗 豊山派 徳満寺」の
石柱の隣りに、
「布川城跡」の標柱も立っています。
下の布川陸橋を過ぎてすぐですので
クルマだと素通りしてしまいそうです。
でも、その場合、もう少し先を
左折して回り込む道もあります。
社寺号標石「真言宗 豊山派 徳満寺」
石柱裏面に、昭和60年(1985)8月の建立銘。
当山第27世、生芝正渓代、と記されています。
施主は、当町浜宿の桜井氏。故人の菩提のための建立です。
本体: 高241cm、幅61cm、厚46cm。
徳満寺の石柱左の道路はゆるやかな登り勾配がついています。
ここを登ると境内に向かうことになりますが、左手に古い常夜燈と布川城跡(ふかわじょうせき)の標柱が立っています。
標柱は、本体: 高145cm、幅25cm、厚15cm。利根町布川の山ア氏よりの寄贈
徳満寺は真言宗豊山派(後述)の寺で当初、元亀年間(1570〜1573)祐誠上人により、いまの門前に建てられましたが、
1600年の慶長の乱でこの一帯を治めていた豊島氏が滅ぶと城跡(現在の場所)に寺を移しました。
府川城跡の碑の近くに案内の立札が立っています。
左の画像がその一部です。ちょっと読みづらいので以下、その要旨を記します。
本サイト 来見寺 に、府川→ 布川、頼継寺→ 来見寺
の変遷のことなど紹介しました。
布川城の本丸が、現在の徳満寺の敷地、
二の丸は、利根町役場敷地と考えられており、
徳満寺は、当時、城下にありました。
なお、布川(府川)城跡は、
利根町指定史跡になっています。
いかにも古そうな常夜燈ですが、由緒が分かりません。
竿と呼ばれる個所に、「奉獻 御神塔」と刻まれています。
御神塔と聞くと、神社への奉納のように思えますが、どうなんでしょう。
本体: 高150cm、幅63cm、厚63cm。
台石上: 高26cm、幅58cm、厚59cm。
台石下: 高58cm、幅78cm、厚80cm。
この入口と同様に、県道沿いに、
入口のすぐ近くに、徳満寺の天神宮があります。
また、そのすぐ横に庚申塔群があります。
→ 徳満寺の天神宮(コンテンツページ)
→ 天神宮横の庚申塔群
古い常夜燈のすぐ左手に、
下に下りる細い石段を見つけました。
少し先で右に折れています。
これも布川城の空堀の跡のようです。
どこへ続いているのでしょうか。
本コンテンツでは紹介しませんが、
気になる方は現地でお確かめください。
もうひとつの入口が山門ですが、
山門は左のこの階段を登った上にあります。
栄橋の陸橋部分の下の道から登るのです。
この写真は、毎年11月末の地蔵市開催時のもので、
ふだんは「延命地蔵大菩薩」の幟は立っていません。
中腹までの13段+残り58段の石段。
疲れているときに登るとさらに疲れます。
でも、ここが、本来の徳満寺の「正門」です。
「地蔵市」「地蔵祭り」では、この山門への石段は大事なポイント。
下は山門から下を見下ろしたもの。
あれっ、もしかして徳満寺の山号「海珠山」の紹介はこれが最初?なぜ、宗旨とか基本情報にはいってないのでしょう?
加えて、院号も記されていません。「新義真言宗・豊山派・徳満寺」と「海珠山・多聞院・徳満寺」と呼び方は2通り。
左がその山門。下は地蔵市開催時で、
祭り用の幕などが張られています。
山門の中に見えている建物は客殿。
『利根町史』では写真キャプションで、
この客殿を「本堂」と称していますが、
境内案内図では「地蔵堂(本堂)」と
なっています。
以下、それに統一します。
なお、この山門の沿革ですが、客殿と同時の寛政4年(1792)に建てられています。
山門自体も古いものでしょうから、この「海珠山」の扁額も相当古そうですが、揮毫等は文字が小さくて読めません。
山門の塀に設置されていました。
平成15年(2003)11月の奉納。
そんなに昔ではないのですね。
利根町はお年寄りが多いので助かりますね。
手すりがないと、降りるときのほうが・・・。
そんなわけで、タヌポンは、この階段はなるべく避けて
もっぱら次に紹介する 3.空堀からの入口 ばかり利用しています。
石段の中腹に石柱が立っています。
「六阿弥陀第壱番」と記されています。
この「六」とはどんな意味なのでしょう。
また、第壱番とはどういういわれが?
これらは当初、まったく分からなかったのですが、
ようやく半年ほどでその全容が判明しました。
これについては、
更新・加筆した 「総州六阿弥陀詣」 で詳説しました。
本体: 高172cm、幅39cm、厚24cm。
四郡大師(しぐんだいし)
山門への石段の中腹では、
上記六阿弥陀石塔の他に
見逃せないポイントがあります。
それが、写真の四郡大師堂です。
この四郡大師についても、探索当初、
まったくその意味も存在も
タヌポンは認識していませんでした。
これが徳満寺を中心としたもの、
そのこと自体も知りませんでしたし、
さらに写真の大師堂すらも
見落としていたくらいです。
利根町の各地域にある大師の祠、
大師堂を先に発見したのですが、
そのときも「何だろうなあ」と・・・。
ようやくそれが、四国88ヵ所の霊場巡回する、
ミニ版(写し巡礼)であることが分かったのは、
もう十何箇所の大師を発見した後でした。
すぐ隣にある六阿弥陀石塔も同様の性格を持ったもの。
左は、堂内の大師像。右のウサギはなぜここに?
本体: 高33cm、幅29cm、厚20cm。
四郡大師については、2012年現在で、
利根町はほぼ100%訪問し終えているのですが、
全体で200ヵ所もあり、利根町以外にも数多くあるわけで、
全体では80%程度でしょうか。
もう少し探索した後に特集を組もうと思っています。ここでは、とりあえず四郡大師の概要を紹介するにとどめます。
客殿の入口に昭和37年(1962)に奉納された 四郡大師順路図 が掲げられています。
しかし、現在の配置とは幾分、変化しているようです。このあたりも調べて新しいマップも作りたいと思っています。
また、徳満寺には、四郡大師に関連する施設 奥の院 もありますのでこれも後述します。
『利根町史』第4巻によれば・・・。
4月の行事(4月1日〜11日)として、地元では「だいっさま(だいしまいり)」と呼ばれています。
四国88ヵ所の霊場を当地に写したもので、その札所を詣でることで、だいっさまとは、弘法大師空海を意味しています。
利根町での札所は、すべて布川の徳満寺を中心とした「布川組」に属していますが、
他に取手の長禅寺を中心とする「新相馬88ヵ所」や南の「印西組」「成田組」等々があります。
これらは、ときに「新四国」と呼ばれることもあります。
布川組は、下総国埴生(はぶ)郡東金山村(現成田市)の 大見川安右衛門 という人が、日頃遍照尊(空海大師)を信仰し、
文化年中(1804〜1818)に四国の88ヵ所を巡拝し、札所の霊砂を持ち帰ったことからはじまります。
この持ち帰った霊砂により当地で霊場を開設しようとしましたが、志半ばにして病気で亡くなってしまいます。
この話を聞いた十里河岸(現河内町)の 山本豊栄 という人が、この志をついで霊砂を譲り受け、
布川徳満寺の 恵灯上人 に指導を仰いで、文政元年(1818)には、すべての札所を開設して開眼しました。
文献は、このことを記した『坂巻美男家文書(大師詣道知ルベ)』ですが、後半、文化元年とあるのは文政元年の誤記です。
四国を、河内郡、相馬郡、印旛郡、埴生郡 の四郡になぞらえて札所を設けたので、「四郡大師」と呼ばれています。
第1番札所は、山本豊栄の功績により十里に置かれました。以下の写真がその十里の大師堂です。
当初は、札所は88ヵ所に置かれたものと推定されていますが、『坂巻家文書』によれば、「追々かけ所相殖(ふえ)候・・・」、
そして、文久4年(1864)には、「道法合(みちのりあわせて)三拾里余、霊場百九拾八箇所」に及んだ、とあります。
▼ 基本的なことなのですが、実は、この徳満寺の大師堂の札所番号ですが、当然、88番なのだと思うのですが・・・。
札所の番号札が付いていないのです。そして確認もまだしていません。ただ、他で88番札は見たことはありません。
▼ 山門への石段上り口には、幟立や、多くの石仏が並んでいます。これも後述します。
3つ目の入口は裏道。
利根町役場の脇の道の途中にある
左の階段から登っていく方法です。
この空堀からは、
階段を多く登らなくてすむので、
徳満寺、また琴平神社に行く場合も、
タヌポンはここを利用しています。
家に近いということもあります。
遠くからクルマでくる人は、
この前に駐車は難しいので
やはり県道沿い入口がいいでしょう。
ここは、前述「布川城跡」の地図で、
左の緑の地色で示した場所。北の方角から入ります。
赤松宗旦の『利根川図志』(巻3)には、
「・・・金毘羅社西の端に建ちて城の大手と覚し
(道を挟みて乾隍の状あり)・・・」とあります。
乾隍(からほり)とは、この布川城の空堀のことです。
ここは、実は、琴平神社 への裏口でもあるのです。
下左が、道路沿いの5.6段の階段を登って空堀の中央に進んだところ。前方にもうひとつ小さな階段があります。
階段を登ると左右に分かれる道に突き当たります。右に行くと 琴平神社、左が、徳満寺地蔵堂の背後へとつながります。
なお、階段脇や空堀左手に石仏が何基か見えますがこれらはすべて墓塔ですので、本サイトでの説明は割愛します。
上右の写真が 階段を登った上の道。琴平神社 側から見たところです。向こうに見えるのが徳満寺の本堂(地蔵堂)の背後。
空堀からの階段を登ると、左右に伸びる細道に突き当たります。
右は琴平神社、左折するとすぐに左写真の建物があります。
これが、古札納所(ふるふだおさめどころ)。上部の注意書きは
「お願い:ガラス・陶器・ぬいぐるみ人形等は納めないでください」。
ゴミ捨て場のように思っている人もいる、ということですね。
写真右手の石段を上った先は、歴代住職の墓所となっています。
ところで、神社のお札などをここに納めるのはやっぱりダメ?
いくら神仏習合といってもねえ。やっぱりダメでしょうね。
古札納所のすぐ右に石段が付いています。この上が、歴代住職の墓所となっているようです。
以前は、鎖がかけられ「進入禁止」となっていましたが、最近では、たまたまかも知れませんが解禁のような・・・(右下)。
もっとも、こんなところへ登って、「恵灯上人の墓は?」などと調べようとするのはタヌポンくらいでしょうが・・・。
でも、許されるなら、いちど登って調べてみたい気もしています。祐誠上人の墓はあるのか、無縫塔が多いのかどうかなど。
一見すると、円明寺の 歴代上人の墓 に比べると規模は大きくないようです。歴史は徳満寺のほうが古そうですが・・・。
広い敷地に無数の墓碑・石仏
上記は、たいへんな誤解でした。登ってみてびっくり。気が遠くなるほどの数多くの墓碑・五輪塔・石碑・石仏・・・。
地蔵堂右側奥の敷地のすべてが歴代住職墓所もしくは、その関係者の墓所という感じで、さすがは利根町随一の名刹!
入口から奥まで、敷地の中央部などに、こんなのがいっぱい!
これらを1基1基調べる、って、いやあ、ちょっとムリムリ。
それにしても、どうして、こんなにあるの?
みんな関係者?無縁仏もあるのでしょうか。
メインの墓碑に追加して造立した供養塔のようなものも
たくさんあるのでしょうね。
ちょっとここは、調査といってもねえ・・・。
入口から矩形敷地の対角線上にあるところまで呆然として進むと、歴代住職墓所コーナーらしき場所にたどり着きました。
右奥に、大きな墓碑が見えます。あれだけ確認して、ちょっといまは退散するしかありません。
右に「當山二十三世」「為辨應阿闍梨菩薩也」
左には「権大教正大宮覺寶書」とあります。
阿闍梨(あじゃり)とは、サンスクリットで「軌範」。
戒律を守り弟子たちの規範となる師匠僧侶の意。
さて、中央に刻まれた梵字ですが、左の5文字で、
「ア ビ ラ ウーン ケン」の音。
「大日如来報身真言」と呼ばれるものです。
意味?ウーーン、これ以上は独学でどうぞ。
下にもあるように、ここは無縫塔は少なく、
五輪塔ばかりですね。宗派で違うのでしょうか。
本 体: 高158cm、幅123cm、厚16cm。
台石上: 高39cm、幅98cm、厚48cm。
台石下: 高64cm、幅142cm、厚92cm。巨大です。
さて、この歴代住職墓所から石段を降りてくると、
右手に古札納所、左は地蔵堂で、前には、
地蔵堂裏側の通路が真っ直ぐ伸びています。
突き当たりを左折すると境内中央に出られます。
この通路の右手にも各種の石仏が並んでいます。
これについては、徳満寺2の 地蔵堂裏の石碑と石仏 で、
まとめて紹介します。
県道の門から入るとずっと奥の突き当たり、山門からは入って左手が地蔵堂。
本尊の延命地蔵尊(地蔵菩薩・子育て地蔵とも呼ばれています)が安置されているところです。
右上は元旦(2008年)朝の初詣時、右下は地蔵市開催時(2005年)の写真です。
祭礼時は、通常はない南無地蔵菩薩の赤い旗が数多く立てられるほか、地蔵尊の提灯、美しい五色幕などで飾られます。
地蔵堂内は、地蔵市(地蔵祭り)開催時しか入れませんので、
この項で紹介するのはそのときの写真です。
左の本尊については 前述(木造地蔵菩薩立像)しました。
以下は、ランダムのスナップです。
木造地蔵菩薩立像の仏壇の両隣りの様子です。檀家の人たちなら精しい説明ができるでしょうが・・・。
考えてみれば、仏具の多彩さも相当なものです。お寺の方はこれらすべての仏具の名前を覚えなければなりませんね。
天井を仰ぐと、様ざまな美しい絵模様が描かれています。少し破損しているところなど修繕できないものでしょうか。
地蔵堂正面前や堂の周囲には、
様ざまなものが掲出、
設置されています。
不明なものも多々ありますが、
以下、ランダムに紹介します。
鰐口に少し隠れてしまって残念ですが、
これは「杉野東山」揮毫の扁額ですね。
左下に「東山杉埜篆書」銘があります。
東山は明和6年(1769)生まれで享年83、
嘉永5年(1852)没なので、
その間の作ということになります。
地蔵堂に向かって右の上部に掲げられています。
高所にあるので大きさが測りにくいのですが、
幅は約170cm、高さは108cmとかなり大きいです。
「寺田寶丹拜書」と読めるのですが、
間違っている可能性もあります。また、この人物も不明です。
利根町での書家では、寺田林直という人がいますが、
号は蛟城と名乗っているので、別人と思われます。
→ 寺田寶丹ではなく「守田寶丹」と判明!(がらん氏指摘)
揮毫は守田寶丹
守田宝丹(もりたほうたん)
幕末・明治の実業家。江戸生。名は祐孝、通称治兵衛。代々の薬舗に生れ、19で家業を継ぐ。商品名でもある「宝丹」を号とし、家業の一方で書画をまなぶ。はじめ、書は江馬東丘を師とし画は狩野派につくも、のち、ともに門下をはなれ独流をつらぬく。古銭の収集・鑑定家としてもしられ、同好の成島柳北と交流があった。東京府会議員、市会議員などの公職もつとめた。大正元年(1912)歿、72歳。(『美術人名辞典』)
初代守田治兵衛は、摂津国より、延宝8年(1680)に江戸へ出て、薬舗を開き「貞松堂」と号しました。
その後、連綿と代を重ね、大正12年の関東大震災で全焼した店舗も、平成5年、8階建ての現社屋が完成しています。
株式会社守田治兵衛商店/〒110-0005 東京都台東区上野2-12-11
ご先祖の揮毫した額が徳満寺にあることを、現在のご当主はご存じなのでしょうか?
さて、この「寺田→ 守田」の事実が、次の新規追加記事「地蔵堂奉納句額」後半で、さらなる思わぬ発見を誘発します。
(13/10/13・13/09/20 追記)
前記延命地蔵尊の扁額とは対称的な位置、地蔵堂に向かって左上に句額を見つけました。(いままで見落としていた?)
これも高いところで寸法が測りにくいので概算ですが、幅約247cm、高さ64cmくらいかと思われます。
少し高いところですので脚立でもないとローアングルでしか撮れませんが、ピンが合っていれば文字が読めそうです。
しかし、ずいぶんと数が多いですね。100句近くあるかも知れません。では、チャレンジしてみますか。解読を。
額の右上には、何か画が描かれています。
山水画のようにも見えますが、太い円弧の線の意味は?
冒頭には特段の句額のタイトルや文字がなく、
いきなり俳句がズラリ並んでいます。
句額末尾に、「明治廿九丙申年春睦月」とあり、
明治29年(1896)正月に興行された句会のようです。
数えてみると、冒頭から中央過ぎて区切れの部分までで54句、
その後に36句、次に「判者」として6句、
最後に「催主」の3句で、入集(にっしゅう)総計99句。
意図した数なのか、偶然なのか。もう1句で100句ですが・・・。
この句額の特筆すべき点は、東京・西京(京都)だけでなく、遠く 肥前から桐子園竹外 などの宗匠を判者として招き、
その門人を含め、利根町の各地域だけでなく、茨城は取手、土浦、水戸、守谷、千葉は印西、印旛、白井、流山等々、
きわめて広範囲の俳人の名が見えることです。
また、開催時の明治29年(1896)正月は、徳満寺2で紹介した 鳴鐘壓死碑 の句碑建立からわずか3年後(実質2年強)。
企(碑建立者)だった 晴星舎勇樂 が今回は催主のひとりとなり、「鳴鐘壓死碑」の催主、徳満寺住職俊渓= 布川紅蓮 は、
今回は催主ではなく一般で参加しています。選者(判者)では、地元の 永々斎尚之、比雪庵可夕 が同様に参加、
判者の紅一点、東京の 栞菴清雅女 も、当時43歳、同様に活躍しています。
以下、入集全99句を紹介します。最初の54句と36句の区切れはとくに意味はないようです。並びも順不同です。
ただし、催主はそれぞれ2句掲載(補足参照)されていますので、入集者は96人となります。
俳号欄の黄地色は鳴鐘壓死碑にも入集した俳人。地域の薄黄色は利根町。薄緑は肥前・長崎。(句は変体仮名のみ修正)
No | 俳句 | 地域 | 俳号 | 補足 | |
1 | 棟上けの 酔覺めやらす はつ蛙※ | 水戸 | 拜頓 | ※ 初かわず | |
2 | 寒い日の 中に咲きけり 梅の意地 | 前新田 | 宇克 | ||
3 | 門に積む 年木※や梅に まハり道 | 安食 | 宏的 | ※ としぎ。戸口や門松のそばなどに置き、年神に供える木。節木(せちぎ)。若木。幸い木。季語=新年。(Kotobank) | |
4 | 夕露や 翌日※の日和を 草の上 | 中田切 | 遊樂 | ※ あす | |
5 | 笛吹きに 来る客もあり 萩の庵 | 大房 | 愛泉 | ||
6 | 早梅や 旭に薫る 鉢の向 | 白井 | 双二 | ||
7 | 月の船 野もたとりたく なりにけり | 白井 | 九角 | ||
8 | 見渡せは さハるものなし 雪の朝 | 布川 | 白玄 | ||
9 | 不二見えて ほのほの廣し 初御空 | 大留 | 竹月 | ||
10 | 摘む手から 匂ひ翻※るゝ 木の芽かな | 八木郷 | 花雪 | ※ こぼ(るる) | |
11 | 白露や 心とむれは 草の揺れ | 八木郷 | 榮賜 | ||
12 | 風の来て 雨戸を辷※る 寒さかな | 八木郷 | 千里 | ※ すべ(る) | |
13 | 人里の 見かけて遠き 枯野哉 | 中田切 | 錦女 | ||
14 | 月影の まはらに更けて 花すゝき | 埜原 | 坂麿 | ||
15 | 雨晴れて 細うなりけり 枯すゝき | 埜原 | 竹齊 | ||
16 | 掃初や 塵にも交る 青まつ葉 | 萩原 | 萩池 | ||
17 | こころまて 吹て暮れけり 春の風 | 布川 | 半湖 | ||
18 | はなれ家に 近道問ふや 秋の暮 | 六軒 | 鐸郎 | ||
19 | 梟を 聞くや淋しき 宮の森 | 六軒 | 花友 | ||
20 | 畔道の 細く見えけり いねの秋 | 布鎌 | 玉月 | ||
21 | はたこやへ 一里後れて 虫の聲 | 新宮 | 壷天 | ||
22 | 見る人の かはれはけふも はつ桜 | 布佐 | 刀水 | ||
23 | 離れ家に 音信※早し 秋の聾 | 下市場 | 鶴唳 | ※ おとずれ | |
24 | 竹植て 風の生るゝ 小庭さき | 肥前 | 竹杖 | ||
25 | 夘の花の 明りにつたふ 小道哉 | 肥前 | 春錦女 | ||
26 | 葉ハ枯れて 一入※雪の 栁かな | 肥前 | 霞海 | ※ ひとしお | |
27 | 三目月も 丸い光りや 露の玉 | 肥前 | 井美 | ||
28 | 山寺に 吹き込められて 雪見かな | 肥前 | 鶴齢 | ||
29 | 陽炎や 富士につらなる 小まつ原 | 守谷 | 風翠 | ||
30 | 無事嬉し 二百十日の 夕こゝろ | 守谷 | 樂山 | ||
31 | 曙や 花にまとまる ひと心地 | 中田切 | 東水 | ||
32 | 花七目 あけほの近き 峯の雲 | 布川 | 貫山 | ||
33 | 明て行く 空のはこひや 露明り | 吉高 | 青楓 | ||
34 | 我とわか 心あたらし はつ日かけ | 吉高 | 西洲 | ||
35 | 消へてその 暗をふかめる 花火哉 | 吉高 | 香谷 | ||
36 | あけ花火 表と裏は なかりけり | 山田 | 鶴里 | ||
37 | 松を吹く 風から秋の 覺えけり | 埜原 | 老谷 | ||
38 | 艸の戸の 燈火※くらし 露しくれ | 東京 | 静雨 | ※ ともしび | |
39 | 朝かほや 日毎の花の あハれなる | 東京 | 保栁 | ||
40 | 蔵まても あけて祝ふや 夷子講※ | 谷清 | 竹堂 | ※ えびすこう | |
41 | 浪風も しつかな春と なりにけり | 布川 | 松月 | ||
42 | 何事も 障らぬふりの 栁かな | 押付 | 鳳尾 | ||
43 | 暮れきらぬ 先に出てあり 春の月 | 押戸 | 一笑 | ||
44 | 宵に寝て 枕に千鳥 聞く夜哉 | 布川 | 紅蓮 | 徳満寺第25世俊渓。 | |
45 | 散藁の 中から出たり 三十三才※ | 布川 | 春江 | ※ ミソサザイ。鷦鷯。スズメ目ミソサザイ科の小鳥。季語、冬。 | |
46 | 風あるに ゆさりともせぬ 牡丹かな | 馴柴 | 一舫 | ||
47 | 悠然と うけし力や 雪のまつ | 布川 | 蛙鳴 | ||
48 | 松に風 あつけて松に 時雨けり | 佐山 | 機年 | ||
49 | 菜の花や 渡場見えて 七曲り | 佐山 | 文系 | ||
50 | 長閑さや もうこれからの 旅こゝろ | 布川 | 薫志 | ||
51 | 朝霧を 背負て来にけり 薪賣※ | 布川 | 素山 | ※ たきぎうり | |
52 | 月ほとに 明星照るや 冬の川 | 土浦 | 李蹊 | ||
53 | 何ひとつ もの影もなし 月の海 | 佐山 | 秀山 | ||
54 | 吹きたゆむ 汐先雨や 鐘かすむ | 龍崎 | 已峰 | ||
55 | ひとり燈下に坐して もの思ふ夜や 鹿の聾 | 高砂 | 刀水 | ||
56 | 啼きもせぬ 虫の髭ふる 小春哉 | 新宮 | 賞素 | ||
57 | 明けやすき 寝耳や栗の 落る音 | 須藤堀 | 友申 | ||
58 | 稲の穂の 稲にもたるゝ 実入かな | 布川 | 蘭石 | ||
59 | 百八の 煩雲※はれて はつ日の出 | 布川 | 勇樂 | 催主 ※ ぼんうん | |
60 | 照り付た 音をつほめる 日傘かな | 布川 | 三才雄 | 催主 | |
61 | 海苔もらふ 度に都の 噂かな | 長崎 | 星集 | ||
62 | 水仙や 兄の日向※も うらやます | 龍崎 | 松雲 | ※ ひなた | |
63 | ひと筋に 秋を守るや 鳴子引 | 布川 | 春湖女 | ||
64 | 一雨に 濁る小川や 行々子※ | 前新田 | 一政 | ※ ぎょうぎょうし(鳴き声から)ヨシキリの異名。季語=夏。『三省堂 大辞林』 | |
65 | 蝉なくや 蒔たやうなる 雨のあと | 肥前 | 一々 | ||
66 | 朝毎に 樹深うなりぬ 遠やなき | 馴柴 | 令松 | ||
67 | 中庭の 燈籠低し をほろ月 | 布川 | 千代雄 | ||
68 | 蝶舞ふや 今鶯の 飛しあと | 布川 | 梅月 | 催主 | |
69 | ひとり寝の 心もとなし わかれ幮※ | 布川 | 師竹 | ※ かや=蚊帳 | |
70 | 似た形※の 山も揃ふて 夕かすみ | 吉高 | 梅理 | ※ なり | |
71 | 大海の そこまてすむや 雪の山 | 布川 | 旭光 | ||
72 | 春雨や 見て居る山の 色に降る | 中田切 | 花林 | ||
73 | 冬知らぬ 色やまつ山 檜※山 | 長崎 | 竹司 | ※ ひのき | |
74 | 朝はれの 目先に近し 秋の山 | 川原代 | 風里 | ||
75 | 短か夜や 宵寝すゝむる 雨の音 | 押戸 | 濁愼 | 長塚永存。根本寺 の37世住職。 | |
76 | 朝夕や 秋近くなる 木々のかけ※ | 布川 | 春ゝ女 | ※ 木々の影 | |
77 | 木枯や かすかに見ゆる 峯の寺 | 白井 | 吟月 | ||
78 | 真直に 雪車※のあと見る 月夜哉 | 長崎 | 秋外 | ※ そり | |
79 | 順禮は 何處の人よ 秋の暮 | 布川 | 翠松 | ||
80 | 雉子※1なくや 山は浅黄※2に 明け放し | 六軒 | 松齋 | ※1 きじ。※2 あさぎ | |
81 | 落付ぬ 雲の往来※や 秋の空 | 大留 | 清月 | ※ ゆきき | |
82 | 思ふこと なかは※残るや 年の暮 | 長崎 | 志ける | ※ 半ば | |
83 | 雨ひと夜 蚊帳のなこりと 成にけり | 長崎 | 其翠 | ||
84 | 蔓引けハ 隣へ落る ぬかこ※かな | 布川 | 花舟 | ※ 「むかご」のまちがいか? | |
85 | 摘芹の 香も交るらし 細なかれ | 萩原 | 萩園 | ||
86 | 人馴て 晝も出てあり 嫁かきみ | 肥前 | 笠外 | ||
87 | 幸に 出る用もあり はつ袷※ | 吉高 | 雨橋 | ※ あわせ | |
88 | 佐保姫※や 人の氣はみな 野に移る | 豊田 | 眺霞 | ※ さおひめ。春の女神。元は佐保山の神霊であり、948年の『陽成院一宮姫君歌合』では秋の歌に登場。(wikipedia) | |
89 | 雲やけの さめぬ深山の 紅葉哉 | 須藤堀 | 一友 | ||
90 | 朝雨の あと匂ふなり はつかすみ※ | 呼子 | 梢村 | ※ 初霞 | |
判者 | |||||
91 | 丈高き 松から洩れて 梅に月 | 下總 | 比雪庵可夕 | ||
92 | 雲をもる 慈錫※の音や 夏木立 | 東京 | 孤舟菴白蘋 | ※ じしゃく | |
93 | この頃や 茶に汲む水も 花の影 | 下總 | 永々斎尚之 | 永々斎(大野以兄)2世。小池尚之。北方出身。後に東京の三森幹雄に師事。 | |
94 | 梅白し 日はいつくれて 峯の月 | 西京 | 不識庵聴秋 | ||
95 | 黄鳥※の 聲や無量の 朝ほらけ | 東京 | 栞菴清雅女 | 三森幹雄の門弟。※ うぐいす | |
96 | 二羽居るは 鴛鴦※ならぬ 朧月 | 肥前 | 桐子園竹外 | 三森幹雄の門弟か。※ おしどり | |
催主 | |||||
97 | 彳※めは 吹て居るなり 春の風 | 布川 | 晴星舎勇樂 | 星野庄作。※ たたず(めば) | |
98 | 掬ふ手に 松の香もある 清水哉 | 布川 | 松廼家三才雄 | ||
99 | 日の影も 寒し廣野の ひとつ家 | 布川 | 竹廼家梅月 |
せめて、利根町の俳人は、本名をすべて知りたいところですが、なかなか資料が見つかりません。
そんななかで、判者の 栞菴清雅女 は、『明治畸人傳』でも知られる有名人でした。
『明治畸人傳』と栞庵清雅女
『明治畸人傳』は、明治36年(1903)5月に著者阪井弁(さかい・わかち)、内外出版協会によって刊行されました。
当時の「畸人」を48名挙げて紹介しています。しかし、畸人といっても、椋樹庵と号する阪井弁にとっての「畸人」であり、
外聞より自らの知人としての性格が強いようです。有名なところでは、正岡子規 や伊藤左千夫 も名を連ねています。
「大酒家」とか極端なものでは「狂人」として紹介されている人物もあります。栞菴清雅女は、最後の48人目に登場します。
以下、栞庵清雅女(俳人)のユニークな紹介文を転載します。(近代デジタルライブラリーより)
栞庵淸雅女
余昨夏を箱根姥子の湯に養ふ。偶ま栞庵淸雅と相識る。淸雅は東京の人、芝金杉の質屋の女。養子を迎へて今に其業を營む。幼より文學を好み長じて俳句の大家某に就いて俳句を學び、遂に宗匠の一人となる。其家に在るや、帳場に坐して良人の助手たり。然れ共性洒落にして男子の如し。年四十餘、常に漫遊を好む。箱根底倉仙石屋の女主人と知る。数年前孕めるあり。仙石屋の主人慶詞を述ふ。笑って曰く、僕なんかに子が出來て溜るもんかねと。後男子を産む夭す。其人に語るに良人を目して奴さんと云ふ。蓋し戯言なれども女史の口に上れば、洒脱敢て惡威をひかず。平素よく良人に仕ふるも、土曜と日曜の兩日は、俳句の會に出づと云ふ。町家の女流としては亦奇と云ふべきなり
『新撰俳諧年表』と栞庵清雅女
栞庵清雅女は、『新撰俳諧年表』にも掲載されています。
平林鳳二・大西一外の著作で、書画珍本雑誌社・大正12年刊のこの本は、
その「凡例」にあるように、
「文亀元年より大正十二年に至る四百十三年間に於ける著名の俳人七千余名の伝記事蹟、著書、其他の事柄を年次的に摘抉せるものなるが、特に伝記集成に力を尽せり」
というもので、清雅女については、「大正元年」の項目で、以下のように記されています。
大正元壬子
▼ 淸雅女歿、四月十六日、享年五十九、森氏、栞庵と號す、幹雄門、相模人。
大正元年(1912)に59歳で歿ということで、生年は安政元年(1854)、
明治29年(1896)徳満寺の奉納句額は43歳のときのものと分かります。
幹雄とは明治俳諧の巨匠三森幹雄で、その号のひとつに「桐子園」があることから、
判者のひとり肥前からの「桐子園竹外」も幹雄の弟子と推定されます。
さて、『新撰俳諧年表』のこの淸雅女の記述直後をなにげに見て、!!!!!
▼ 寶丹歿、十月十八日、享年七十二、守田氏、名治兵衛、東京人、俳諧を能す。
こ、これは、この句額項目の前の「延命地蔵尊の扁額」で、つい最近追記したばかりの
「守田寶丹」、まさしくその人の記述ではないですか!なんという偶然でしょうか。
(13/10/13 追記・13/09/20 撮影)
先ほどの杉野東山の扁額の上にあります。
梵字で4文字。右から2番目は「カ」と読んで、
地蔵菩薩を意味するものと思われますが、
4文字全体でどんな意味になるのかはさっぱり分かりません。
額の左に「明治二巳初冬」とあり、
明治2年(1869)初冬の作と分かります。
他に「當山廿三世辨應拜」とあります。
あっ、これは歴代住職墓所で、いちばんエラげな、
いやいちばん立派な大きな墓碑に記された方ですね。
地蔵堂の扁額右下の扇子額。「大願成就」と歌が記されています。
六道の 能化の地蔵 大菩薩 導き給ひ 此世後世
(ろくどうの のうけのじぞう だいぼさつ みちびきたまひ このよのちのよ)
これは、四国88ヵ所5番札所「無尽山 荘厳院 地蔵寺」の御詠歌。
ちなみに地蔵寺は、弘法大師の開基で、宗派は真言宗御室派、
本尊を延命地蔵・勝軍地蔵菩薩としています。
六道(ろくどう・りくどう)とは、
地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道。
能化(のうけ・のうげ)とは、仏語で、
師として教え導く者、衆生を教化する仏・菩薩のこと。
この額の左には、朱で「丁巳陽春 午・歳男」という文字が見えますが、丁巳は干支なのでしょうが、年号が不明です。
江戸後期以降で「丁巳」年を探すと、寛政9年(1797)、安政4年(1857)、大正6年(1917)、近年では昭和52年(1977)。
額の文字等から大正6年(1917)あたりが妥当かと思いますが・・・。右の朱文字は「慈悲大喜捨」。
これは、地蔵堂の左の回廊の上に掲載されていました。
詳細は不明ですが、真ん中の「子育て 延命地蔵尊」の周囲に、
数多くの屋号の札が並んでいます。
これらをよく見ると、「神田」「牛込」「本所」「江戸」等々、
江戸の町の商店のようです。
これらは徳満寺とどのような縁になるのか分かりませんが、
「総州六阿弥陀詣」の件もあり、
徳満寺は江戸でも話題の寺だったのではないでしょうか。
何か銘があるようなのですが、判読できません。
ところで、いつも適当に鳴らしていますが、
何回鳴らすとか決まりはあるのかしらん?
こういうものもあるのですね。初めて見ました。
引っ張って回してもいいものか分かりませんが、
触れれば、大きい分、ご利益もありそうな・・・。
上記大数珠の背後、堂の表に取り付けられた地蔵菩薩の真言板。
おん か か か び さんま えい そわ か
意味は、「類いまれな尊いお地蔵様」という礼賛の言葉。
地蔵堂前の椅子に鎮座しているちょっと目立つ色の像。
「おびんずるそんじゃ」という説明が付いています。
「賓頭盧尊者」は、釈尊(釈迦)の弟子で、十六羅漢の筆頭。
単に「びんずる」「おびんずる」「おびんずる様」のほか
「なで仏様」とも呼ばれています。
痛いところと同じ箇所をなでて拝むと治るそうです。
世界のキリスト教の神像などにも同様のものがありますね。
釈迦の弟子でしたが神通力を見せびらかしたので、
教団から追放されたそうです。
どこの賓頭盧尊者も堂の外に祀られているのは、
追放されたせいかも知れないとのことです。
本体: 高78cm、幅70cm、厚60cm。
普段は、地蔵堂の裏側の回廊に置かれていますが、
地蔵祭り等のときは、堂の正面にあったように記憶しています。
徳満寺の大黒様は、右手に持ったの「打ち出の小槌」で、
手足の痛いところをたたいてお祈りすると治ると言われています。
この像の「打ち出の小槌」は動かせないので、
代わりに横に2本、木槌が置かれています。
本体も木像。
本体: 高62cm、幅44cm、厚35cm。
大黒天のある場所から上部を見上げると、美しい屋根が。
泉光寺の本堂でも見かけた飛擔垂木 です。
飛擔垂木(ひえんだるき)とは、
垂木および地垂木の先に浅い角度で
継ぎ足すように付けられている垂木のこと。
垂木・地垂木・飛擔垂木が、いいバランスで、
屋根に反りを与える役目を果たしています。
大黒天のある場所からさらに回廊を奥に進むと、曲がり角手前に「絵馬掛け」を見つけました。
これは、表からは見えず、ちょっと分かりにくい場所ですね。
絵馬掛け先を右折し、地蔵堂の右手に回ると、左に部屋と扉が見えますが、もしかすると歴代住職墓所への近道入口かも。
このまま前方に進み、突き当たりを右折すると1周できますが、回廊の右側には小部屋の他には特筆するものはありません。
摩尼車(まにぐるま)
地蔵堂前に戻って、正面を見ると手前に何か石柱のようなものが建てられています。こういうのあったっけ?という第一印象。
徳満寺訪問初期の頃にはなかったように思いましたがやはり。
下左写真には、平成19年(2007)5月と、最近の設置です。
恐縮なのですが、最初、遠くから見たとき、
おみくじの自動販売機なのかと思ったりしました。
そういうものではなく、これは摩尼車という世界的に由緒ある仏具。
手前に引っ張って回転させると、お経を1回あげたことになるとか。
「摩尼」とは、仏心・菩提心・仏法の宝もしくは
お経を意味する言葉で、濁った心を澄まし、
災いを去らせる徳があるとされています。
「一回一誦」(いっかいいちじゅ)の面が、正面。
本体: 高129cm、幅21cm、厚21cm。
摩尼車の隣りには、地蔵堂の真ん前には線香立てがあります。
「凡夫の心は蓮華のつぼみの如く、仏心は満月の如し 弘法大師」と彫られています。
満月を見れば、月見団子。蓮の花を見ればレンコンの炒め物を思うタヌポンが到底及ばぬ境地ではあります。
さて、この言葉は空海大師の「秘密曼荼羅十住心論」の要約・略本である「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)の一節。
この碑では、「蓮華」となっていますが、正確には「合蓮華」(ごうれんげ)。単なる1字ヌケの間違いでしょうか。
本体: 高102cm、幅70cm、厚59cm。(上部直径55cm)
地蔵堂の右隣り、山門から入って
正面にあるのが客殿。
昔はここが本堂だったようで、
建物もなかなか立派です。
下の写真は、地蔵市開催時。
五色幕などで飾られます。
客殿内は、煌びやかな内装ですが
これも地蔵市開催日に撮ったもの。
ふだんは中に自由には入れません。
さて、客殿前のポイントは後にして、先に、地蔵市開催時に撮ったスナップを以下、紹介します。不明なものも多いのですが。
やっと見つけました。院号の「多聞院」の文字。
客殿に入ってすぐのところに掲げられています。
揮毫は、「當山廿七世正渓」銘。まだ新しい感じです。
煌びやかな祭壇。
祀られているのは、弘法大師なのか、大日如来なのか?
左はこれが「天蓋」もしくは「人天蓋」というものでしょうか。
客殿廊下には「間引き絵馬」があり、柳田國男が思春期にこれを見て衝撃を受けたという話が残っています。
後に民俗学の出発点ともなった意味でも貴重な絵馬とされていますが、制作年代・作者ともに不明です。
写真右は客殿前にある解説の立看板。水子(間引き)絵馬は、子育て地蔵とともに、利根町指定文化財になっています。
日本の民俗学の父である柳田國男は、13歳(明治20年)から2年余りの間、長兄のいた利根町布川で過ごしました。
そのとき、この絵馬を見て、「その意味を、子供心に理解し、寒いような気持ちになった」と後に述べています。
柳田國男でなくてもだれしもそう思うでしょうが、襖に写った絵馬の女性に角が生えているような描写は、
飢饉に対しての幕府行政の行き届かない面を無視し、庶民のやるせない辛さへの労わりに欠けているような気もします。
明治頃までのこの辺りの農村の貧困と、天明の飢饉や度重なる水害により、当時常習化していた悪習がなくなるように、
そんな願いが込めて奉納された絵馬、というのですが・・・。
▼ 「間引き」とは、生まれたばかりの嬰児を殺すことで、「子返し」とも呼ばれています。切なくも残酷な話です。
住職のご厚意で、徳満寺所蔵の玉峨による屏風を見せていただきました。
玉峨は、赤松宗旦の『利根川図志』の挿絵を主に担当した絵師。
ほかに布川神社所蔵の絵馬「天の岩戸図」や「神功皇后と武内宿禰図」等を
描いています。(絵馬作者「玉峨」の謎 参照)
この屏風に描かれていると思われる「竹林の七賢」とは・・・
3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、
酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した、下記の七人の称。
阮籍(げんせき)、嵆康(けいこう)、山濤(さんとう)、劉伶(りゅうれい)、
阮咸(げんかん)、向秀(しょうしゅう)、王戎(おうじゅう)
その自由奔放な言動は『世説新語』に記され、後世の人々から敬愛されていますが、
七人が一堂に会したことはないらしく、4世紀頃からそう呼ばれるようになったとか。
『世説新語』とは中国の逸話集。南朝宋の劉義慶編。五世紀前半に成立。
後漢から東晋に至る士大夫の逸話を記したもの。(Wikipedia より)
左は、屏風に記された玉峨の落款など。印影は「亀作斉」と推定。
(13/11/02 追記・13/07/08 撮影)
客殿の廊下や部屋の中には、各種の興味深い品々が置かれています。お宝鑑定団に見てもらいたい気分。
地蔵堂ほどはポイントはありませんが、
写し巡礼に関する額が2つあります。
向拝部分はなんといっても、
精緻な彫刻が施されていることと、
その彫刻の稜線に沿った流れるような
ラインが際立っています。
客殿前というより、
屋根の上ですが・・・。
徳満寺の寺紋も、境内では
見かけませんね。
左の九曜(くよう)紋です。
客殿の建物の鬼瓦で、
やっと見つけました。
客殿を正面から見ると最初に目に入ってくるのがこの額。
四郡大師順路図額で、昭和37年(1962)11月の奉納。
この図を参考に、四郡大師を探索していこうと思ったのですが、
この当時とは微妙に大師堂の位置等が変化しているようです。
また利根町以外の大師堂も数多くあるので、
全部探し終えるのは相当時間と労力がかかりそうです。
でも、いつか・・・。
上記四郡大師順路図額の右に設置されている小さな額。
大正15年(1926)3月22日付で、
浅草睦会のメンバー12名が「総州六阿弥陀詣」を行い、
徳満寺を訪れたことを記念して作成したもの。
これについては、総州六阿弥陀詣 および
浅草睦会の六阿弥陀詣 に詳説しました。
高さの割には、横長の賽銭箱ですね。
これなら、特大紙幣や大型株券、金の延べ棒なども入りそうです。
もう少し斜め上から俯瞰で、
隙間からのぞいている1億円札とか撮りたかったのですが、
そうすると、タヌポンの顔がガラスに写ってしまうのです。
気が付かずに間抜けな自分を撮ってしまうケースも。
どうしようもないときは、画像処理で消したりするのですが、
映り込みが複雑だとなかなか消えにくいことも多々あります。
県道からの入口を入ると最初に見える建物。11月末の「地蔵祭り」などには句会などで提供していただいています。
ちなみに庫裏・庫裡(くり)とは、1.寺院の台所にあたる建物。庫院。庫堂(くどう)。2.寺院で住職や家族の住む所。
庫裏の建立は、昭和30年(1960)。
タヌポンが聞く除夜の鐘は、
おそらくこの鐘楼堂の鐘の音です。
山門から入って右手のほうです。
文政3年(1820)の建立。
下は、登り石段脇の刻銘版。
昭和57年(1982)11月、
27世正渓上人によって修理。
どの部分を修理?石段それとも・・・。
梵鐘には数多くの人名が彫られています。下右に少し大きく刻銘されているのは、東京の鋳物師の名前でしょうか。
毎朝5時や6時は起きていることも多いタヌポンですが、聞いたことはないです、ヘンだな。こんど注意して聴いて見ます。
右は、鐘楼の外側から見える置物。朝の時の鐘には驚いて起きないでね、ということでしょうか。
鐘楼堂の中心、梵鐘の真下に設置された像。
七福神にならって毘沙門天のようです。
もしかすると、残りの六福神を造ったときに
セットでこれを!?ちがうかな?
これも山門から入ってすぐ右手。
さすがに利根町随一の名刹徳満寺。
このお水屋は町でいちばん立派です。
手水鉢の刻銘「明和三年三月吉日」
明和3年(1766)3月の奉納建立。
施主は、「内宿若者中」。
本体: 高55cm、幅129cm、厚68cm。
なかなかいい味(この場合は水)出している蛙ですが、上部には「蛙竜勝」と題する「和也」作の鳥獣戯画風の額も。
一般に、ヘビに睨まれたカエル、というくらいですから、この場合逆ですが、どんな手段で竜に勝つのでしょうか?
お水屋のすぐ隣りにある、回転式のおみくじ結び処。
これは元旦の翌日1月2日(2008年)時点ですから、
さすがにびっしりと結ばれています。
隣りの樹にまで拡がっていますね。
木々を守るためには結び処に付けるのがいいのですが
多くてスペースがない場合は仕方がないですね。
本堂のすぐ右隣りにある小さな部屋が、太刀堂。
藁で作った竜を配した木製の大太刀が安置されています。
狭いので真横からは撮れませんでした。
毎年7月の第1日曜に「太刀祭」(たちまつり)が行われ、
悪疫退散を願ってこれをかついで町を練り歩くのです。
→ 詳細は 太刀祭 で。
下は、左が通常時。右は太刀祭当日。当然ながら、「太刀」は、外に出ています。
地蔵堂との角に1基の古い常夜燈があります。
太刀堂側からは戒名等がいくつか見えます。
左には、「父母兄弟九人供養」とあります。
供養の直下の文字「□光」が読めません。
妙光?としても異体字になるし意味も・・・。
建物側に建立年が記されていそうですが、
「八月八日」が見えるだけで不明です。
この常夜燈は、太刀堂とは無関係の様子。
本体: 高123cm、幅36cm、厚36cm。
山門から境内外に出ると、左右に小堂が建っているのが見えます。左が「馬頭観音堂」、右が「小地蔵堂」です。
面白いことに、それぞれの堂の山門寄りに1基ずつ、地蔵が建っています。これらはお互いに関連があるのでしょうか。
また、それぞれの堂と地蔵との関連も興味があります。「小地蔵堂」の左には、外向きの石碑も見えます。順に見てみましょう。
「馬頭観音堂」の小額が上部に設置されています。
馬頭観音だけを祀ったこの規模の堂は徳満寺だけです。
『町史』によれば、「観音堂」と題して、以下の記述があります。
寛政11年(1799)馬疫流行し斃死相踵(あいつ)ぎ、
賢栄上人に託して祈祷した
馬に関連する堂とは境内にはこれしか見当たらないので
この馬頭観音堂のことと思われます。
ところで、賢栄上人とは歴代住職のひとりなのでしょうか。
これについては、徳満寺2の 三峯社 にも名前が出てきます。
鰐口は、奉納の要旨を記した案内板が設置されています。
昭和62年(1987)7月19日の奉納です。
小地蔵堂にもよく似た鰐口があります。
セットでの奉納なのでしょうか。
でも、本体表面に刻銘があるのはこちらだけのように見えます。
廻国塔(地蔵第壱番)
馬頭観音堂側に立っている地蔵。
台座に第壱番とあります。これがよく分かりません。
六阿弥陀詣のようなものとも思えませんが・・・。
下左は台座の左側面。
六十六部供養塔 とあります。
これは「廻国塔」と同様に、
経典を全国66ヵ所霊場に納める記念の塔と解釈すればいいのでしょうか。
他にも文字が彫られていますがよく見えません。
また、右側面には・・・。
享保十五庚戌歳
寛政六甲寅天三月廿四日
内宿
濱宿
念佛講中
導師 法印 日憧(日憧の文字はちょっと判読に自信がありません)
年号が2種類あるのは、廻国巡拝開始と終了の日なのでしょうか。
享保15年(1730)と寛政6年(1794)との差は64年、日本全国を周りきるには妥当なのか長すぎるのか・・・。
いずれにせよ、この地蔵塔が建ったのは3月24日と刻銘されているほうの寛政6年(1794)と考えられます。
まだ、巡拝し終わっていない64年も前に、「完成後の日付」を刻銘するのはどう考えてもおかしいからです。
本体: 高94cm、幅33cm、厚19cm。台石: 高33cm、幅41cm、厚28cm。
『利根町史』の説明では・・・。
かつて利根川大いに溢れ、この像が漂着し、村人たちが堂を構えて安置した
石の地蔵が流れてきたわけですか。
まあ、土石流というのもありますが。
それにしては、破損がないようですし、
蓮台もきれいですねえ。
下は、小地蔵堂の額。
5体の小地蔵というのが正しいのか、
小地蔵4体+1が正確なのか、
それとも小地蔵1+サブ4なのか?
あっ、まさか何体も漂着したわけではないので、
やはりメインの漂流地蔵は、真ん中の1体でしょうね。
ミニ地蔵は、あとから追加したお供の者ではないでしょうか。
鰐口は、一見、馬頭観音堂のものとそっくりに見えますが、よーく見比べてみると、やはりちょっと模様とか違っています。
しかし、表面には何も文字が見えないので、堂側に回りこんで、裏側をのぞいて見てみました。すると・・・。
写真右は裏面で、「明治九子年十一月」「當所 内宿 女人講中」。つまり明治9年(1876)11月の奉納。
馬頭観音堂の鰐口より、100年以上も古いものであることが分かりました。調べてみるものですね。蜘蛛が背筋に入ったけど。
小地蔵堂脇に立っている地蔵。
台座の文字も読めないし、これもよく分かりません。
下左は台座の左側面。
寛政六甲寅 とあります。
寛政6年(1794)の建立ですが、その下の月日がうまく判読できません。
しかし、これは馬頭観音堂脇の地蔵の建立年と同じです。
これはいったいどのように解釈すればいいのでしょうか。
また、右側面には
再建立 念佛講中 内宿 濱宿 とあります。
これも、馬頭観音堂脇の地蔵と後半は同様、問題は「再建立」の意味です。
「再建立」とは、一般には建て直しという意味にとりますが、
2基同時期に建立してもこのような表現になるのでしょうか。
それとも、同年ながら日付をずらして、もう1基、対にして建立したということ?
どうも疑問が残る不可解なことばかりですが、
寛政六甲寅 以下の文字の判読ができるようになれば、
また新たな解釈が可能になるかも知れません。
本体: 高85cm、幅33cm、厚17cm。台石: 高30cm、幅39cm、厚27cm。
さて、この小地蔵堂側には、もう1基、厄介なポイントがあります。厄介というのは、正面からの撮影が難しいという意味。
左写真で分かるように、この石碑は、
外向きに建てられています。
しかし、その前は崖で、
しかも樹木に覆われています。
山門下の石段を数段降りて、
横から撮ろうとしたのですが、
どうも足場が悪いし、その前に、
まず樹木も少し伐らねば難しいです。
無断で伐っていいかの判断もあり、
まあ、撮れる範囲の角度で・・・。
ということで、石碑タイトル確認がやっと。
裏面はかんたんに撮影できて、
「昭和12年(1937)3月建立」が判明。
チャレンジしてきました。以下。必死の思いで石碑の前にきても、これですからねえ。この黄色のヤツ、なんとかなりません?
おかげで、右上(写真中央)、左下(写真右)の補足カットも。「相馬霊場参拝記念」と「開運講」でした。
問題は、「相馬霊場」の意味合い。これは取手長禅寺主体の「相馬霊場」なのか、それとも「布川組四郡大師」なのか。
本体: 高163cm、幅77cm、厚9cm。
いちばん気に入ったのがこの場所。
ここも実は琴平神社からの「探検」で
見つけたのです。あの空堀の道から。
ですから、ここへは、左写真の右手、
地蔵堂の左通路から来たわけです。
座ってひと休みすることもできますし、
何かありそうな上への石段もあります。
これで、もう少し見晴らしがよければ
最高なんですが・・・。
いろいろ石塔・石碑が立っています。
これらは徳満寺2 地蔵堂横の石碑類 で紹介します。
言い忘れましたが、左の石の椅子は上に板が張ってあるのです。
タヌポンは、よくある公園の、色だけは木に似せた、
がさつで冷たいベンチが大きらいです。
でも、ここなら、そんな感じはまったくありません。
こんなところに、徳満寺住職のやさしい気遣いが感じられます。
境内北東の庫裏前から右手奥に進むと、トイレと駐車場があり、その前に離れのような建物があります。
これが「奥の院」と呼ばれるもの。
初めて訪問した2005年当時より、
いろいろ改築・整備された様子です。
ここは、何のためにある建物なのか、
いまもよくは分かりませんが・・・。
どうも「奥の院」は、四郡大師の催しと関係あるようです。
毎年の結願をここで執り行うとも聞きました。
惣新田や加納新田などで、「結願記念碑」を見かけましたが、
必ずしも徳満寺の奥の院だけが
結願の場所ではないのかも知れません。
結願をどこで行うのか、いろいろルールがあるのかも・・・。
この辺りの仕組みは未調査です。
奥の院の建物から見て左側にある石像。
下の文字は「みんな なかよし ほとけのこ」
うーーん、これは・・・。
もしかして、以前、幼稚園にあったもの?
奥の院の裏手は現在駐車場になっています(下右写真)が、以前は徳満寺の経営する幼稚園でした。
左の写真は2005年時で、まだ駐車場になっていないとき、園児が帰宅した冬の昼下がりの光景です。
奥の院を最初に訪問したとき、裏手の幼稚園に気付いて、以下のようなことを記していました。
なんとなく、センチメンタリスティック
ここは娘が通った幼稚園です。
ちょうど3時ですが園児はもう帰宅したのでしょう。
だれも見えません。
象さんの滑り台が寂しそうです。
ここからこんな風に見えていたのですね。
あれから20数年経ちました。
なにか取り戻せない時間の重さを感じてしばしたたずむタヌポンでありました。
上記から、さらに7年半もの歳月が流れました。
娘の通った痕跡は、象さんやパンダの顔がのぞく、「可憐な駐車場」に変わりました。
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(17/06/28・15/03/24・13/11/02・13/10/13・13/09/20・13/06/24 追記・12/09/10 コンテンツ分離再構成) (10/02/19・07/05/27・05/11/15・05/11/14・05/11/12・05/11/05・05/11/04・05/11/03・05/01/18 追記) (05/01/16) (撮影 15/03/22・13/09/20・13/07/08・12/11/29・12/11/25・12/09/05・12/08/28・12/08/13・11/09/19・10/11/27・10/02/20・10/02/19・09/03/17・08/01/02・06/11/26・06/10/08・05/11/27・05/11/26・05/10/02・05/09/10・05/07/03・05/06/12・05/05/28・05/04/16・05/04/08・05/03/19・05/01/23・05/01/18・05/01/16・05/01/01・04/12/25・04/12/23・04/11/28・04/11/18・04/09/24)
本コンテンツの石造物データ → 徳満寺1の石造物一覧.xlsx (14KB)